2006年03月21日
15世紀頃の北方〈エゾ〉世界(3)
コシャマインの討死によって、ひとまず大きな戦いは終息しましたが、和人とアイヌの争いはその後100年にわたって続いていました。アイヌの軍勢は近隣の村々をやぶり、多数の和人(シャモ)を殺害したといいます。蝦夷が島の和人たちは劣勢に立たされ、勢力範囲も上之国、松前周辺に縮小していました。
しかし先述したように、蝦夷が島の戦乱は《和人》対《アイヌ》という完全な二項対立だったのではなくて、和人とアイヌは雑居し、場合によっては同盟を結ぶこともあったようです。コシャマインを討ち取った蠣崎信広(武田信広)は上之国の勝山館を拠点に和人勢力の掌握に乗り出します。蠣崎氏のライバルは松前守護の安藤氏(のち守護代の相原氏)でしたが、拠点であった松前大館はやがて蠣崎氏の軍勢に攻略されます。この攻略が成功した要因には、蠣崎氏がアイヌの首長と同盟したことが背景にあったといわれています。
1514年(永正11)、蠣崎光広・良広親子は松前大館に移り、秋田の安東氏から蝦夷が島の守護として認められます。こうして蠣崎氏は蝦夷が島における和人の覇者としての地位を確立したのです。ただし蠣崎氏は完全に独立したのではなく、安東氏の配下として諸国から入港する商船の関税を安東氏に上納していました。
和人とアイヌの争いは、1550年(天文19)にようやく終止符が打たれます。蠣崎氏は東部シリウチのチコモタインと西部セタナイのハシタインと相互協定を結び、蝦夷が島に来航する和人商船から集めた関税を両首長に分配することが定められました。一方、アイヌ商船は関税を払う必要はなく、フリーパスで通過することができたといいます。和人側の大幅な譲歩によって和平が実現されたのです。この頃から蠣崎氏は若狭の守護武田氏との外交関係も結びます。蠣崎氏を継いだ武田信広は、実際には蝦夷地に流れてきた浪人だったようですが、武田家との親交を結ぶことで自らが由緒ある家柄であることをアピールしたのです。これは安藤氏が自らを蝦夷の出自とした認識とは大きく異なるものです。若狭の武田氏は新羅三郎義光の出です。蠣崎氏(もと武田氏)は源氏の子孫と内外に宣伝することで、蝦夷が島を支配する正統性を確保しようとしたのです。
余談ですが日本国の東の果て、外が浜にはしばしば「人魚」が出現したといいます。鎌倉時代、津軽近辺に人のかたちをした大魚が漂着したとの風聞が鎌倉まで流れ、大騒動になっています。「人魚」の出現は不吉なこととされ、汚らわしい存在として考えられていたのです(ここも参照)。それは日本の境界の外側が、人ならざる者、物の怪(もののけ)が住む世界としてとらえられていたことと関連します。西の境界が“鬼界”が島とされたのも、日本の外である琉球諸島が人ではない「鬼」の住む世界として当時の日本人に観念されていたからです。外が浜の「人魚」(実際にはオットセイなどの生き物と考えられています)のとらえ方は、琉球で同じ「人魚」のジュゴンが聖なる生き物として考えられていたのとは大きなちがいです。
しかし先述したように、蝦夷が島の戦乱は《和人》対《アイヌ》という完全な二項対立だったのではなくて、和人とアイヌは雑居し、場合によっては同盟を結ぶこともあったようです。コシャマインを討ち取った蠣崎信広(武田信広)は上之国の勝山館を拠点に和人勢力の掌握に乗り出します。蠣崎氏のライバルは松前守護の安藤氏(のち守護代の相原氏)でしたが、拠点であった松前大館はやがて蠣崎氏の軍勢に攻略されます。この攻略が成功した要因には、蠣崎氏がアイヌの首長と同盟したことが背景にあったといわれています。
1514年(永正11)、蠣崎光広・良広親子は松前大館に移り、秋田の安東氏から蝦夷が島の守護として認められます。こうして蠣崎氏は蝦夷が島における和人の覇者としての地位を確立したのです。ただし蠣崎氏は完全に独立したのではなく、安東氏の配下として諸国から入港する商船の関税を安東氏に上納していました。
和人とアイヌの争いは、1550年(天文19)にようやく終止符が打たれます。蠣崎氏は東部シリウチのチコモタインと西部セタナイのハシタインと相互協定を結び、蝦夷が島に来航する和人商船から集めた関税を両首長に分配することが定められました。一方、アイヌ商船は関税を払う必要はなく、フリーパスで通過することができたといいます。和人側の大幅な譲歩によって和平が実現されたのです。この頃から蠣崎氏は若狭の守護武田氏との外交関係も結びます。蠣崎氏を継いだ武田信広は、実際には蝦夷地に流れてきた浪人だったようですが、武田家との親交を結ぶことで自らが由緒ある家柄であることをアピールしたのです。これは安藤氏が自らを蝦夷の出自とした認識とは大きく異なるものです。若狭の武田氏は新羅三郎義光の出です。蠣崎氏(もと武田氏)は源氏の子孫と内外に宣伝することで、蝦夷が島を支配する正統性を確保しようとしたのです。
余談ですが日本国の東の果て、外が浜にはしばしば「人魚」が出現したといいます。鎌倉時代、津軽近辺に人のかたちをした大魚が漂着したとの風聞が鎌倉まで流れ、大騒動になっています。「人魚」の出現は不吉なこととされ、汚らわしい存在として考えられていたのです(ここも参照)。それは日本の境界の外側が、人ならざる者、物の怪(もののけ)が住む世界としてとらえられていたことと関連します。西の境界が“鬼界”が島とされたのも、日本の外である琉球諸島が人ではない「鬼」の住む世界として当時の日本人に観念されていたからです。外が浜の「人魚」(実際にはオットセイなどの生き物と考えられています)のとらえ方は、琉球で同じ「人魚」のジュゴンが聖なる生き物として考えられていたのとは大きなちがいです。
2006年03月08日
15世紀頃の北方〈エゾ〉世界(2)
琉球で尚巴志たちが活躍していた時代、北方では「日之本将軍」の安藤盛季(もりすえ)と子の泰季(やすすえ)が強大な勢力を誇り、十三湊も全盛期を迎えていました。盛季・泰季親子は京都の足利将軍や若狭の寺院に莫大な銭や北方の物資を寄付していました。交易の富が安藤氏を隆盛に導いていたことがわかります。
しかし1432年(永享4)と1442年(嘉吉2)、安藤盛季・泰季は糠部(青森の東側)の南部氏に敗れ蝦夷が島へ没落。その後も失地回復をめざすもののかなわず、十三湊安藤氏の嫡流は断絶してしまいます。南部氏は傍流の安藤師季(もろすえ)をカイライとして下北半島の田名部に擁立し、北方海域のターミナルは田名部湊に移ることとなります。やがてカイライの地位に不満であった師季は蝦夷が島へ渡海、後に秋田の檜山に拠点をかまえ再起します(秋田安東氏)。
蝦夷が島の南岸部には館(たて)という和人の城塞が築かれ、秋田安東氏のもとに3つのグループに編成されていました。館は琉球でいえばグスクに相当します。グループの長は守護といい、上之国守護・下之国守護・松前守護が各館主をたばねていました。館主はちょうど琉球の按司、三守護は三山のようなかたちでしょうか。安東氏は蝦夷地を間接的に支配したのです。15世紀中ごろの勢力図は次のとおりです。
┏「上之国守護」蠣崎季繁━館主
「檜山屋形」安東尋季━╋「下之国守護」安東家政━館主
┗「松前守護」安藤定季━館主
ただし和人たちは館という「点」を掌握していたにすぎませんでした。蝦夷地は和人とアイヌが雑居する状態で、両者は対等の存在であったのです。道南各地に割拠する館主は互いに同盟・対立を繰り返し、館主とアイヌ人首長が同盟を結ぶ場合もあったようです。
1456年(康正2)、アイヌの少年が和人に殺害された事件をきっかけに東部の酋長コシャマインが蜂起、東部アイヌの軍勢が和人の館を襲いました。和人の館は次々に陥落し、12あった館のうちわずか2つを残すばかりとなります。アイヌが決して和人の下位に甘んじるような弱い存在ではなかったことがわかります。この和人側の苦境を救ったのが花沢館主蠣崎(かきざき)季繁の客将、武田信広です。信広が放った矢がコシャマインに命中、これを契機にアイヌ勢は総崩れとなり、和人側は辛くも危機を脱しました。この功績により信広は蠣崎家を継ぐことになります。これが近世大名、松前氏の元祖です。
しかし1432年(永享4)と1442年(嘉吉2)、安藤盛季・泰季は糠部(青森の東側)の南部氏に敗れ蝦夷が島へ没落。その後も失地回復をめざすもののかなわず、十三湊安藤氏の嫡流は断絶してしまいます。南部氏は傍流の安藤師季(もろすえ)をカイライとして下北半島の田名部に擁立し、北方海域のターミナルは田名部湊に移ることとなります。やがてカイライの地位に不満であった師季は蝦夷が島へ渡海、後に秋田の檜山に拠点をかまえ再起します(秋田安東氏)。
蝦夷が島の南岸部には館(たて)という和人の城塞が築かれ、秋田安東氏のもとに3つのグループに編成されていました。館は琉球でいえばグスクに相当します。グループの長は守護といい、上之国守護・下之国守護・松前守護が各館主をたばねていました。館主はちょうど琉球の按司、三守護は三山のようなかたちでしょうか。安東氏は蝦夷地を間接的に支配したのです。15世紀中ごろの勢力図は次のとおりです。
┏「上之国守護」蠣崎季繁━館主
「檜山屋形」安東尋季━╋「下之国守護」安東家政━館主
┗「松前守護」安藤定季━館主
ただし和人たちは館という「点」を掌握していたにすぎませんでした。蝦夷地は和人とアイヌが雑居する状態で、両者は対等の存在であったのです。道南各地に割拠する館主は互いに同盟・対立を繰り返し、館主とアイヌ人首長が同盟を結ぶ場合もあったようです。
1456年(康正2)、アイヌの少年が和人に殺害された事件をきっかけに東部の酋長コシャマインが蜂起、東部アイヌの軍勢が和人の館を襲いました。和人の館は次々に陥落し、12あった館のうちわずか2つを残すばかりとなります。アイヌが決して和人の下位に甘んじるような弱い存在ではなかったことがわかります。この和人側の苦境を救ったのが花沢館主蠣崎(かきざき)季繁の客将、武田信広です。信広が放った矢がコシャマインに命中、これを契機にアイヌ勢は総崩れとなり、和人側は辛くも危機を脱しました。この功績により信広は蠣崎家を継ぐことになります。これが近世大名、松前氏の元祖です。
2006年02月22日
15世紀頃の北方〈エゾ〉世界(1)
中世、日本の境界は“西は鬼界が島、東は外が浜”とされ、北方は外が浜(現在の青森)までが日本国の支配の及ぶ領域とされました。
鎌倉時代、この地域は日本国の守りの要所として北条氏の所領となり、代官の安藤氏が現地を掌握していました。安藤氏は前九年の役で源氏に滅ぼされた安倍氏の子孫を自称しており、「蝦夷管領」とも呼ばれた、北方世界における大きな勢力でした。ただし、安藤氏をはじめとしたこの頃の「和人」勢力はアイヌを完全に支配下に置いてはいません。アイヌ民族は一つの権力のもとに組織はされていませんでしたが、その勢力は蝦夷が島(北海道)のみならず千島・樺太方面、津軽半島まで拡大していました。樺太方面ではモンゴル元朝の軍勢とも衝突し、アイヌは海を渡って大陸の元軍も攻撃しています。この頃の国境は非常にあいまいなものであり、津軽半島などにも多数のアイヌが和人と混在している状況がありました。アイヌは狩猟民としての性格が強調されますが、狩猟はむしろ北方の産物を調達するためであり、ラッコやサケ、昆布などの北方の産物を日本に供給する「交易の民」としての性格が強かったといえるでしょう。
13世紀後半になると、北方世界ではアイヌの反乱が多発、安藤氏一族の争いも加わり大混乱に陥ります。安藤氏の軍勢にはアイヌも動員されたようで、必ずしもアイヌ対和人という構図ではありませんでした。蝦夷大乱に鎌倉幕府は衝撃を受け、鎌倉では連日、蝦夷降伏の祈祷が行われます。外が浜は日本国の要衝であり、支配者である幕府の権威を地に落とすことになります。鎌倉幕府滅亡は、実はこの蝦夷内乱が大きな要因であったとされています。
南北朝の争乱の後、北方世界の支配者となったのは外が浜の十三湊(とさみなと)を拠点とした安藤氏一族です。十三湊は北方世界最大の交易港で、北は樺太・ユーラシア大陸につながる蝦夷が島、南は日本海の越前から交易物資がここに集積されました。十三湊は琉球の那覇に劣らない交易都市だったのです。北方世界のメインルートは、それまでの奥大道の陸上交通から、日本海の海上交通へとシフトしていきます。北方世界の制海権を掌握し、交易の莫大な富を手にした安藤氏は自らを「日之本将軍」と称しました。日の本(ひのもと)とは日本のことではなく、太陽の出る東、つまり日本の東の果てを意味します。
また安藤氏は自らの先祖を安倍氏としただけでなく、征夷大将軍の坂上田村麻呂に討たれた悪路王や、天照大神に敵対した第六天魔王の孫、安日長髄(あびのながすね)の系譜を自称していました。日本の中央政権にとって外が浜は蝦夷(えみし)の住む野蛮で汚らわしい地でしかありません。しかし安藤氏はそのような差別的な言説を肯定的に受け入れることで、自らが由緒ある蝦夷の統率者であることを宣言し、北方世界の王者たらんとしたのです。
鎌倉時代、この地域は日本国の守りの要所として北条氏の所領となり、代官の安藤氏が現地を掌握していました。安藤氏は前九年の役で源氏に滅ぼされた安倍氏の子孫を自称しており、「蝦夷管領」とも呼ばれた、北方世界における大きな勢力でした。ただし、安藤氏をはじめとしたこの頃の「和人」勢力はアイヌを完全に支配下に置いてはいません。アイヌ民族は一つの権力のもとに組織はされていませんでしたが、その勢力は蝦夷が島(北海道)のみならず千島・樺太方面、津軽半島まで拡大していました。樺太方面ではモンゴル元朝の軍勢とも衝突し、アイヌは海を渡って大陸の元軍も攻撃しています。この頃の国境は非常にあいまいなものであり、津軽半島などにも多数のアイヌが和人と混在している状況がありました。アイヌは狩猟民としての性格が強調されますが、狩猟はむしろ北方の産物を調達するためであり、ラッコやサケ、昆布などの北方の産物を日本に供給する「交易の民」としての性格が強かったといえるでしょう。
13世紀後半になると、北方世界ではアイヌの反乱が多発、安藤氏一族の争いも加わり大混乱に陥ります。安藤氏の軍勢にはアイヌも動員されたようで、必ずしもアイヌ対和人という構図ではありませんでした。蝦夷大乱に鎌倉幕府は衝撃を受け、鎌倉では連日、蝦夷降伏の祈祷が行われます。外が浜は日本国の要衝であり、支配者である幕府の権威を地に落とすことになります。鎌倉幕府滅亡は、実はこの蝦夷内乱が大きな要因であったとされています。
南北朝の争乱の後、北方世界の支配者となったのは外が浜の十三湊(とさみなと)を拠点とした安藤氏一族です。十三湊は北方世界最大の交易港で、北は樺太・ユーラシア大陸につながる蝦夷が島、南は日本海の越前から交易物資がここに集積されました。十三湊は琉球の那覇に劣らない交易都市だったのです。北方世界のメインルートは、それまでの奥大道の陸上交通から、日本海の海上交通へとシフトしていきます。北方世界の制海権を掌握し、交易の莫大な富を手にした安藤氏は自らを「日之本将軍」と称しました。日の本(ひのもと)とは日本のことではなく、太陽の出る東、つまり日本の東の果てを意味します。
また安藤氏は自らの先祖を安倍氏としただけでなく、征夷大将軍の坂上田村麻呂に討たれた悪路王や、天照大神に敵対した第六天魔王の孫、安日長髄(あびのながすね)の系譜を自称していました。日本の中央政権にとって外が浜は蝦夷(えみし)の住む野蛮で汚らわしい地でしかありません。しかし安藤氏はそのような差別的な言説を肯定的に受け入れることで、自らが由緒ある蝦夷の統率者であることを宣言し、北方世界の王者たらんとしたのです。
2006年01月08日
15世紀頃のヤマト(3)
1386年、明の胡惟庸(こいよう)の謀反に加担したとして「日本国王」の懐良親王は明との通交を停止させられました。事の真偽は不明ですが、ともかく義満が明との通交を行える条件は整いました。
そして1401年、義満はついに明皇帝から「日本国王源道義」として冊封され、通交を許可されたのです。これにともなって明からは貿易に必要な「勘合(一種の証明書)」を与えられて毎年のように使節船を派遣し(勘合貿易)、莫大な富を手にすることができました。
義満の「日本国王」冊封は、単なる貿易の利益を得るだけにとどまりませんでした。義満が天皇の権力を我が手に吸収していったと前回述べましたが、実は義満は「日本国王」として天皇に代わる新たな権威となり、天皇制を滅ぼそうとしたのではないかと言われています。
義満の“皇位簒奪(さんだつ。奪うこと)説”については研究者によって意見が分かれるところですが、実際に義満が天皇や上皇に並ぶ体制づくりは着々と進んでいました。義満は公式の舞台で上皇と同格の待遇でのぞみ、また自らが寵愛する子の義嗣(よしつぐ)に、内裏で親王に準拠した元服を行わせます。これは義嗣が皇族と同格であることを意味します。義満は自らを上皇、子の義嗣を天皇に匹敵する地位にすることを計画していたようです。天皇制は崩壊の危機を迎えていました。ところが、義嗣元服のわずか三日後、義満は突然病死していまいます。
朝廷は死んだ義満に「太上天皇」の称号を送りました。しかし、義満の皇位簒奪計画を崩したのは他ならぬ息子の義持でした。彼は父義満が存命中には名目上の将軍でしたが、義満は弟義嗣を寵愛し自らの後継者としていたため、父を激しく憎悪していました。そのため父の死後、義持は義満の計画をことごとく、くつがえします。「太上天皇」称号の辞退のみならず、父が苦労して築きあげた明との冊封関係も全て破棄してしまいます。政治の中心であった北山第も解体され、跡地は鹿苑寺(金閣寺)となります。義持も天皇をおさえつつ将軍の権力を強化することはしたようですが、もともと幕府内にも急進的な義満の政策を批判する人々がいたので、彼らによって義満の「皇位簒奪」路線は潰されてしまうのです。
そして1401年、義満はついに明皇帝から「日本国王源道義」として冊封され、通交を許可されたのです。これにともなって明からは貿易に必要な「勘合(一種の証明書)」を与えられて毎年のように使節船を派遣し(勘合貿易)、莫大な富を手にすることができました。
義満の「日本国王」冊封は、単なる貿易の利益を得るだけにとどまりませんでした。義満が天皇の権力を我が手に吸収していったと前回述べましたが、実は義満は「日本国王」として天皇に代わる新たな権威となり、天皇制を滅ぼそうとしたのではないかと言われています。
義満の“皇位簒奪(さんだつ。奪うこと)説”については研究者によって意見が分かれるところですが、実際に義満が天皇や上皇に並ぶ体制づくりは着々と進んでいました。義満は公式の舞台で上皇と同格の待遇でのぞみ、また自らが寵愛する子の義嗣(よしつぐ)に、内裏で親王に準拠した元服を行わせます。これは義嗣が皇族と同格であることを意味します。義満は自らを上皇、子の義嗣を天皇に匹敵する地位にすることを計画していたようです。天皇制は崩壊の危機を迎えていました。ところが、義嗣元服のわずか三日後、義満は突然病死していまいます。
朝廷は死んだ義満に「太上天皇」の称号を送りました。しかし、義満の皇位簒奪計画を崩したのは他ならぬ息子の義持でした。彼は父義満が存命中には名目上の将軍でしたが、義満は弟義嗣を寵愛し自らの後継者としていたため、父を激しく憎悪していました。そのため父の死後、義持は義満の計画をことごとく、くつがえします。「太上天皇」称号の辞退のみならず、父が苦労して築きあげた明との冊封関係も全て破棄してしまいます。政治の中心であった北山第も解体され、跡地は鹿苑寺(金閣寺)となります。義持も天皇をおさえつつ将軍の権力を強化することはしたようですが、もともと幕府内にも急進的な義満の政策を批判する人々がいたので、彼らによって義満の「皇位簒奪」路線は潰されてしまうのです。
2005年10月28日
15世紀頃のヤマト(2)
明との通交を拒否された足利義満は、国内体制の確立に力をそそぎます。この頃の足利幕府の権力はいまだ磐石なものではなく、南朝勢力のほか、幕府内にも将軍に対抗しうる鎌倉公方(かまくらくぼう)や有力守護をかかえていました。
義満はまず1390年に美濃・尾張・伊勢の守護土岐氏を滅ぼし、1391年には「六分の一殿(日本全土の6分の1を支配する者)」と呼ばれた山名氏も滅ぼします(明徳の乱)。九州の懐良親王を破った今川了俊の力を恐れた義満は彼を遠江・駿河へ左遷、さらには1399年、周防の有力守護、大内義弘を堺で討ち(応永の乱)、強力な将軍権力を確立しました。大内義弘は義満に滅ぼされた山名・土岐や左遷された今川、南朝の残党と手を組み、さらには鎌倉公方の足利満兼にも呼びかけ義満包囲網をつくりますが、義弘が短期間で敗れてしまったため、その力は発揮されませんでした。
続いて義満は朝廷の力もそいでいきます。朝廷に残された唯一の場所である京都の支配権も奪い、1392年には南北朝を合一し三種の神器を北朝側が手にします。義満は1383年に源氏長者、准三后(じゅさんごう。皇后と同等のランク)になり、1394年には将軍職を息子の義持にゆずって太政大臣となり人臣の位をきわめると、間もなく辞任、出家して「道義(どうぎ)」と名乗ります。
これで義満は天皇を頂点とする官位体系から離脱して、これらを超越した君臨が可能となりました。このあたりは室町幕府の副将軍や朝廷の官位に任命されることを拒否して体制外からの統治を行おうとした織田信長といくらか共通する部分があるかもしれません。ここにきて「日本国王」号が重要な意味を持ってくるのです。
天皇の権限も義満によって徐々に吸収されていきます。本来天皇が行うべき国家的祈祷は幕府によって行われるようになり、皇族・摂関家のみがなることを許された有力寺社の門跡も、足利家の子弟が続々と送りこまれていきます。天皇に忠誠を誓うべき公家たちも義満の臣下同然となっていきます。義満は京都北山に大規模な邸宅(北山第。金閣寺のある場所)を造営しますが、この北山第は天皇の内裏をそっくり模倣したもので、内裏にしかないはずの「紫宸殿」や「清涼殿」などの殿舎がありました。北山第は内裏や将軍御所にかわって新たな国政の中心となっていくのです。
義満はまず1390年に美濃・尾張・伊勢の守護土岐氏を滅ぼし、1391年には「六分の一殿(日本全土の6分の1を支配する者)」と呼ばれた山名氏も滅ぼします(明徳の乱)。九州の懐良親王を破った今川了俊の力を恐れた義満は彼を遠江・駿河へ左遷、さらには1399年、周防の有力守護、大内義弘を堺で討ち(応永の乱)、強力な将軍権力を確立しました。大内義弘は義満に滅ぼされた山名・土岐や左遷された今川、南朝の残党と手を組み、さらには鎌倉公方の足利満兼にも呼びかけ義満包囲網をつくりますが、義弘が短期間で敗れてしまったため、その力は発揮されませんでした。
続いて義満は朝廷の力もそいでいきます。朝廷に残された唯一の場所である京都の支配権も奪い、1392年には南北朝を合一し三種の神器を北朝側が手にします。義満は1383年に源氏長者、准三后(じゅさんごう。皇后と同等のランク)になり、1394年には将軍職を息子の義持にゆずって太政大臣となり人臣の位をきわめると、間もなく辞任、出家して「道義(どうぎ)」と名乗ります。
これで義満は天皇を頂点とする官位体系から離脱して、これらを超越した君臨が可能となりました。このあたりは室町幕府の副将軍や朝廷の官位に任命されることを拒否して体制外からの統治を行おうとした織田信長といくらか共通する部分があるかもしれません。ここにきて「日本国王」号が重要な意味を持ってくるのです。
天皇の権限も義満によって徐々に吸収されていきます。本来天皇が行うべき国家的祈祷は幕府によって行われるようになり、皇族・摂関家のみがなることを許された有力寺社の門跡も、足利家の子弟が続々と送りこまれていきます。天皇に忠誠を誓うべき公家たちも義満の臣下同然となっていきます。義満は京都北山に大規模な邸宅(北山第。金閣寺のある場所)を造営しますが、この北山第は天皇の内裏をそっくり模倣したもので、内裏にしかないはずの「紫宸殿」や「清涼殿」などの殿舎がありました。北山第は内裏や将軍御所にかわって新たな国政の中心となっていくのです。
2005年10月20日
15世紀頃のヤマト(1)
思紹・尚巴志たちが生きていた時代、北のヤマト(日本)はどうなっていたのでしょうか。
14世紀後半、日本では南北朝争乱の末期でした。南朝は北朝勢力の足利氏に押されてジリ貧に陥っていました。しかし唯一、九州だけが後醍醐天皇の皇子、懐良(かねよし)親王の「征西府」の支配下にあって北朝の勢力を阻止していました。
一方、この頃中国を統一した明は、1370年、日本の権力者に倭寇を禁圧することを要請し、あわせて冊封を受け入れるよう使者を派遣します。この時、明の使者は九州の懐良親王を日本全土の支配者とカン違いし「日本国王良懐(りょうかい)」として封じてしまいます。懐良は明との貿易を独占できるだけでなく、超大国の明という、北朝方に対抗できる後ろだてを手に入れることができました。
ところが懐良のもくろみは崩れてしまいます。1372年、北朝から天才的軍略家の今川了俊(りょうしゅん)が九州探題として派遣され懐良軍を撃破、博多や本拠地の大宰府を占領して九州を平定してしまうのです。
北朝方の足利義満も何度か明への使者を送りますが、明側は先に冊封した「日本国王」懐良親王以外には入貢を認めないと拒否していまいます。義満は「征夷将軍源義満」の名で使者を送りますが、国王以外の外交を認めない明にとっては、王より下の「将軍」が皇帝に使者を送るなど、とんでもないことです。
実は、明はこの時には懐良親王がもはや実質的な権力は持たない存在であることを知っていたのですが、いったん決めた外交秩序を簡単に変えることはできませんでした。日本の権力者に倭寇を禁圧してもらうという明の思惑は挫折し、かわって琉球を重視する方針をとっていきます(朝貢の開始と国際都市那覇の形成(3)を参照)。
九州支配の実権を奪われた懐良ですが、この後もしばしば明へ使者を派遣しています。しかし、これらの使者は懐良自身が送ったものではなく、薩摩の島津氏など地域領主が送ったものでした。この頃「日本国王良懐」は明と貿易するための名義のような存在になってしまうのです。明側も実体はどうであれ、形式上問題なければ使者を受け入れていました。この「日本国王良懐」の通交は、1386年の日本との断交まで続きます。
14世紀後半、日本では南北朝争乱の末期でした。南朝は北朝勢力の足利氏に押されてジリ貧に陥っていました。しかし唯一、九州だけが後醍醐天皇の皇子、懐良(かねよし)親王の「征西府」の支配下にあって北朝の勢力を阻止していました。
一方、この頃中国を統一した明は、1370年、日本の権力者に倭寇を禁圧することを要請し、あわせて冊封を受け入れるよう使者を派遣します。この時、明の使者は九州の懐良親王を日本全土の支配者とカン違いし「日本国王良懐(りょうかい)」として封じてしまいます。懐良は明との貿易を独占できるだけでなく、超大国の明という、北朝方に対抗できる後ろだてを手に入れることができました。
ところが懐良のもくろみは崩れてしまいます。1372年、北朝から天才的軍略家の今川了俊(りょうしゅん)が九州探題として派遣され懐良軍を撃破、博多や本拠地の大宰府を占領して九州を平定してしまうのです。
北朝方の足利義満も何度か明への使者を送りますが、明側は先に冊封した「日本国王」懐良親王以外には入貢を認めないと拒否していまいます。義満は「征夷将軍源義満」の名で使者を送りますが、国王以外の外交を認めない明にとっては、王より下の「将軍」が皇帝に使者を送るなど、とんでもないことです。
実は、明はこの時には懐良親王がもはや実質的な権力は持たない存在であることを知っていたのですが、いったん決めた外交秩序を簡単に変えることはできませんでした。日本の権力者に倭寇を禁圧してもらうという明の思惑は挫折し、かわって琉球を重視する方針をとっていきます(朝貢の開始と国際都市那覇の形成(3)を参照)。
九州支配の実権を奪われた懐良ですが、この後もしばしば明へ使者を派遣しています。しかし、これらの使者は懐良自身が送ったものではなく、薩摩の島津氏など地域領主が送ったものでした。この頃「日本国王良懐」は明と貿易するための名義のような存在になってしまうのです。明側も実体はどうであれ、形式上問題なければ使者を受け入れていました。この「日本国王良懐」の通交は、1386年の日本との断交まで続きます。



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