2006年12月21日
尚巴志の野望(6)
1416年(永楽14)、中山の軍勢は北山へ侵攻します。軍は総勢三千、中山の浦添按司、越来按司、読谷山按司(護佐丸)、そして帰服した名護按司、羽地按司、国頭按司の率いる兵でなっていました。史書『中山世鑑』によると、尚巴志自ら出陣せず、浦添・越来・読谷山按司3名を大将として派遣しています。のちに中城按司として中山の重鎮となる護佐丸(ごさまる)は、この時の戦いを機に頭角を現してきたようです。
中山軍は3月11日に首里を出発し、軍船20隻あまりで海路、名護へ向かいます。名護の寒汀那港から陸路で進軍、ここで帰順した名護・羽地・国頭按司の軍と合流して一路、北山王の今帰仁グスクへ向かいます。
軍勢を率いる単位が按司単位であること、さらに対立の図式が≪中山≫対≪北山≫というより≪中山+北山の按司≫対≪今帰仁按司≫であることから、当時の三山の政体が強固な王国というものではなく、按司連合政権であったことがここでもうかがえます。つまりこの戦いは中山王国と北山王国との二国家間戦争というよりも、戦いの前に北山の按司連合が瓦解して中山がそれに介入するかたちで戦いが行なわれた、というほうが実態をより正確に表わしているのではないでしょうか。
迎え撃つ今帰仁按司(北山王)の攀安知は勇猛な武将のうえ、武将の平原(たいはら)や兵士は剛勇、さらに天然の要害に立つ今帰仁グスクは幾重にも石垣をめぐらした、鉄壁の守りを誇る大型グスクでした。グスクを囲んだ中山の大軍から、まず浦添按司が突撃しますが、北山軍はグスクから矢の雨を降らせ、浦添按司軍の過半数を戦死させてしまいます。その後も中山軍は何度も攻勢をかけるものの、グスクを落とすことができません。
史書では「城上より箭(や)を放つこと雨の如く」とあるのですが、今帰仁グスクの発掘調査では鉄の弾丸が発見されており、実際の戦闘ではおそらく銃砲などの火器も使用されたはずです。今帰仁グスクの攻城戦は砲音と硝煙の煙、雨のような矢のなかで行なわれた凄惨なものだったのではないでしょうか。
正攻法をあきらめた中山軍は、今帰仁グスク攻略の次の作戦を実行することになります。
中山軍は3月11日に首里を出発し、軍船20隻あまりで海路、名護へ向かいます。名護の寒汀那港から陸路で進軍、ここで帰順した名護・羽地・国頭按司の軍と合流して一路、北山王の今帰仁グスクへ向かいます。
軍勢を率いる単位が按司単位であること、さらに対立の図式が≪中山≫対≪北山≫というより≪中山+北山の按司≫対≪今帰仁按司≫であることから、当時の三山の政体が強固な王国というものではなく、按司連合政権であったことがここでもうかがえます。つまりこの戦いは中山王国と北山王国との二国家間戦争というよりも、戦いの前に北山の按司連合が瓦解して中山がそれに介入するかたちで戦いが行なわれた、というほうが実態をより正確に表わしているのではないでしょうか。
迎え撃つ今帰仁按司(北山王)の攀安知は勇猛な武将のうえ、武将の平原(たいはら)や兵士は剛勇、さらに天然の要害に立つ今帰仁グスクは幾重にも石垣をめぐらした、鉄壁の守りを誇る大型グスクでした。グスクを囲んだ中山の大軍から、まず浦添按司が突撃しますが、北山軍はグスクから矢の雨を降らせ、浦添按司軍の過半数を戦死させてしまいます。その後も中山軍は何度も攻勢をかけるものの、グスクを落とすことができません。
史書では「城上より箭(や)を放つこと雨の如く」とあるのですが、今帰仁グスクの発掘調査では鉄の弾丸が発見されており、実際の戦闘ではおそらく銃砲などの火器も使用されたはずです。今帰仁グスクの攻城戦は砲音と硝煙の煙、雨のような矢のなかで行なわれた凄惨なものだったのではないでしょうか。
正攻法をあきらめた中山軍は、今帰仁グスク攻略の次の作戦を実行することになります。
2006年09月24日
尚巴志の野望(5)
武寧を打倒した思紹は1407年(永楽5)、明への通交を開始し、武寧の世子として新たに中山王に冊封されます。思紹政権の「王府」主要メンバーは次のようになっていました。
◆中山王:思紹
◆中山王世子:尚巴志
◆王相:王茂
◆長史:王茂(兼任)、懐機
◆華人:林祐、懐得(亜蘭匏の子?)、韓完義(華人か)
◆重臣:三五郎尾(さんぐるみぃ)、模都甫(もとぶ)、甚麻之里(しまじり)、阿不察都(うふさと)、阿乃佳(あじじゃ)
◆寨官(按司):祖魯古(そろぐ)、鄔同志久(うとしく)、周魯毎(じるみぃ)、恰那晟其(じゃなさち)ほか
中山は朝貢貿易を活発に行い、さらに按司の子弟らを南京の国子監(当時の最高学府。いわば明朝の東大)に留学させ中国の先進文化や中国語を学ばせます。按司たちにとっては当時の世界最高水準の学問を学んで自らの権力強化をはかる目的もありましたが、彼ら留学生(官生)らは、実は琉球の朝貢貿易業務の現地スタッフとしての役割も担っていました。長期滞在する学生たちは取引に必要な中国語も学んでおり、留学を終えた後は琉球の朝貢使者としても活躍しました。この留学制度は中山と南山にのみ認められており、北山からの留学生はいませんでした。上記の「寨官」たちは全員、官生として南京国子監に留学した者たちです。彼らは中国語を自由にあやつり、四書五経なども理解していたに違いありません。
中山の抵抗勢力を鎮圧した思紹・尚巴志はいよいよ強敵、北山を狙います。北山王は勇猛で知られた攀安知(はんあんち)、今帰仁グスクを拠点に沖縄島北部一帯を支配下におき、中山にとっては油断ならない存在でした。しかし北山の按司たちは飛ぶ鳥落とす勢いの思紹・尚巴志政権に次第になびいていったようです。近世の史書によると、思紹らは、北山王は剛勇だが、じきに中山に帰服するだろうと楽観視していたようです。しかしある日、中山へ羽地按司からの急報が届きます。北山王が玉砕覚悟で首里へ侵攻しようと兵の動員準備を進めているというのです。
北山王・攀安知は北山の按司たちが次々と中山王側についている状況を見て、「我らは勢力が衰えていっているが、一戦もせずに降伏するは恥。中山の兵が何万騎いようと打ち破ってみせよう。たとえ負けようとも名は後世に残るだろう。者ども、臆して人に笑われるな!」と豪語したといいます。
驚いた思紹・尚巴志はただちに中山の兵を招集し、北山の今帰仁グスク攻略に向かいます。こうして1416年(永楽14)、琉球戦国時代の「関が原」とも言うべき、中山と北山の一大決戦が幕を開けるのです。
◆中山王:思紹
◆中山王世子:尚巴志
◆王相:王茂
◆長史:王茂(兼任)、懐機
◆華人:林祐、懐得(亜蘭匏の子?)、韓完義(華人か)
◆重臣:三五郎尾(さんぐるみぃ)、模都甫(もとぶ)、甚麻之里(しまじり)、阿不察都(うふさと)、阿乃佳(あじじゃ)
◆寨官(按司):祖魯古(そろぐ)、鄔同志久(うとしく)、周魯毎(じるみぃ)、恰那晟其(じゃなさち)ほか
中山は朝貢貿易を活発に行い、さらに按司の子弟らを南京の国子監(当時の最高学府。いわば明朝の東大)に留学させ中国の先進文化や中国語を学ばせます。按司たちにとっては当時の世界最高水準の学問を学んで自らの権力強化をはかる目的もありましたが、彼ら留学生(官生)らは、実は琉球の朝貢貿易業務の現地スタッフとしての役割も担っていました。長期滞在する学生たちは取引に必要な中国語も学んでおり、留学を終えた後は琉球の朝貢使者としても活躍しました。この留学制度は中山と南山にのみ認められており、北山からの留学生はいませんでした。上記の「寨官」たちは全員、官生として南京国子監に留学した者たちです。彼らは中国語を自由にあやつり、四書五経なども理解していたに違いありません。
中山の抵抗勢力を鎮圧した思紹・尚巴志はいよいよ強敵、北山を狙います。北山王は勇猛で知られた攀安知(はんあんち)、今帰仁グスクを拠点に沖縄島北部一帯を支配下におき、中山にとっては油断ならない存在でした。しかし北山の按司たちは飛ぶ鳥落とす勢いの思紹・尚巴志政権に次第になびいていったようです。近世の史書によると、思紹らは、北山王は剛勇だが、じきに中山に帰服するだろうと楽観視していたようです。しかしある日、中山へ羽地按司からの急報が届きます。北山王が玉砕覚悟で首里へ侵攻しようと兵の動員準備を進めているというのです。
北山王・攀安知は北山の按司たちが次々と中山王側についている状況を見て、「我らは勢力が衰えていっているが、一戦もせずに降伏するは恥。中山の兵が何万騎いようと打ち破ってみせよう。たとえ負けようとも名は後世に残るだろう。者ども、臆して人に笑われるな!」と豪語したといいます。
驚いた思紹・尚巴志はただちに中山の兵を招集し、北山の今帰仁グスク攻略に向かいます。こうして1416年(永楽14)、琉球戦国時代の「関が原」とも言うべき、中山と北山の一大決戦が幕を開けるのです。
2006年08月05日
尚巴志の野望(4)
1406年(永楽4)、思紹・尚巴志軍は中山王武寧の本拠地、難攻不落の浦添グスクに侵攻します。浦添グスクをめぐる戦いの様子については、歴史書には詳しい記述は残されていません。おそらく思紹・尚巴志軍の中核は自領である佐敷・大里など東四間切の軍勢で、そこに中山の一部の按司と、一部の久米村勢力が味方についていたはずです。琉球で最も巨大な城塞を落とすには、かなりの激戦となったことが想定されます。あるいは思紹らに内通していた久米村勢力の謀略によってあっさりと決着したかもしれませんが、真相は不明です。いずれにせよ思紹・尚巴志軍は浦添グスクを攻略して、中山王の武寧とその世子である完寧斯結を滅ぼしたのです。
近世の史書によると、徳を失った武寧は中山の按司たちから見放され、誰も救援に来なかったとされていますが、それは事実ではないと考えられます。なぜなら思紹・尚巴志が浦添グスクを陥落させ武寧を滅ぼした後、中山を完全に掌握するまでには数年を要しているからです。
1409年(永楽7)、中山王となった思紹は朝鮮王朝に使者を派遣していますが、そのなかで「武寧が死んだ後、各按司が争いを起こし、我々は連年遠征をしていたため、使者を派遣するのが遅れた」と述べています。この記述は思紹・尚巴志が中山を掌握していく過程をリアルタイムに伝えるものとして注目されます。中山の按司たちは全員、最初から思紹側についていたわけではないのです。おそらく武寧を滅ぼした後、中山は内乱状態となり、思紹・尚巴志は強大な軍事力で敵対する按司たちを次々と屈服させていったのではないでしょうか。当然、按司たちは新興勢力であった思紹らが旧来の秩序を武力で破壊したことに反感を持ったはずです。
浦添グスクを攻略した思紹・尚巴志は、やがて拠点を首里に移したとみられます。しかし、なぜ彼らは中山王都だった浦添を本拠地としなかったのでしょうか。これは旧来の伝統勢力がはびこる浦添とは一線を画す新政権の本拠地をつくるためと、国際貿易港であった那覇にアクセスの良い場所を政治拠点とするためであったと考えられます。浦添とはちがい、首里は那覇の港町全体を一望できるだけでなく、首里の高台から那覇へいたるのも容易でした。第一尚氏政権はとくに那覇の華人勢力との関係を深めていました。対外貿易上の理由にくわえ、政権と華人勢力との一体化などの問題から首里が新王都として選ばれたと考えられます。
ただし先述したように、島添大里グスクも「旧宮」として引き続き利用されていきます。第一尚氏政権は首里グスクと島添大里グスクを二大拠点に、南山の東半分である東四間切と中山の領域を支配し、さらに独立勢力久米村と親密な関係を持つ政権となり、他の二山(北山・南山)より優位な立場を確保していくのです。
近世の史書によると、徳を失った武寧は中山の按司たちから見放され、誰も救援に来なかったとされていますが、それは事実ではないと考えられます。なぜなら思紹・尚巴志が浦添グスクを陥落させ武寧を滅ぼした後、中山を完全に掌握するまでには数年を要しているからです。
1409年(永楽7)、中山王となった思紹は朝鮮王朝に使者を派遣していますが、そのなかで「武寧が死んだ後、各按司が争いを起こし、我々は連年遠征をしていたため、使者を派遣するのが遅れた」と述べています。この記述は思紹・尚巴志が中山を掌握していく過程をリアルタイムに伝えるものとして注目されます。中山の按司たちは全員、最初から思紹側についていたわけではないのです。おそらく武寧を滅ぼした後、中山は内乱状態となり、思紹・尚巴志は強大な軍事力で敵対する按司たちを次々と屈服させていったのではないでしょうか。当然、按司たちは新興勢力であった思紹らが旧来の秩序を武力で破壊したことに反感を持ったはずです。
浦添グスクを攻略した思紹・尚巴志は、やがて拠点を首里に移したとみられます。しかし、なぜ彼らは中山王都だった浦添を本拠地としなかったのでしょうか。これは旧来の伝統勢力がはびこる浦添とは一線を画す新政権の本拠地をつくるためと、国際貿易港であった那覇にアクセスの良い場所を政治拠点とするためであったと考えられます。浦添とはちがい、首里は那覇の港町全体を一望できるだけでなく、首里の高台から那覇へいたるのも容易でした。第一尚氏政権はとくに那覇の華人勢力との関係を深めていました。対外貿易上の理由にくわえ、政権と華人勢力との一体化などの問題から首里が新王都として選ばれたと考えられます。
ただし先述したように、島添大里グスクも「旧宮」として引き続き利用されていきます。第一尚氏政権は首里グスクと島添大里グスクを二大拠点に、南山の東半分である東四間切と中山の領域を支配し、さらに独立勢力久米村と親密な関係を持つ政権となり、他の二山(北山・南山)より優位な立場を確保していくのです。
2006年06月08日
尚巴志の野望(3)
南山の中心ともいうべき島添大里を手にした思紹・尚巴志親子は、知念半島一帯を領有する一大勢力にのし上がります。次に尚巴志は中山に狙いを定めるわけですが、一見無謀に思えるこの試みはどのようにして行われたのでしょうか。
中山は浦添グスクを拠点に沖縄中部を支配する三山のなかでも最強の勢力でした。国際貿易港の那覇を有し、その土地も肥沃で、他の北山・南山と比べて圧倒的な優位を保っていました。浦添グスクは当時琉球最大の規模を誇っており、城下には寺院や王陵、人口池、家臣たちの居宅が並び、トップレベルの技術者集団も住む、琉球の首都の様相を呈していました。中山王の武寧は1404年(永楽2)、明朝から初めて正式な王として任命(冊封)され、その権威はますます大きくなっていました。
中山王の配下には那覇久米村の華人集団がおり、彼らを中心に明朝の王府組織を模倣した官僚機構がある程度整備されていたとみられます(王府組織についてはこちらを参照)。中山の宰相として「王相」の亜蘭匏(あらんほう)、「長史」に程復・王茂がいました。中山は南山内部の抗争に乗じて島添大里の承察度を失脚させて朝鮮に追い落とし、さらに南山全体もうかがう勢いでした。近世の史書では、この頃の中山は人民を苦しめ、王の武寧はおごり高ぶっていたため、尚巴志がこれを討ったとしています。しかしこれは「勝者から見た歴史」です。中山の状況を見るかぎり、表面上では政権が崩壊するような兆候はうかがえません。
では、尚巴志はどのようにして琉球最強の中山を打倒したのでしょうか。その背景として、中山政権の中枢にいた華人集団たちの対立があるように思います。王相や長史といった華人たちは王府の要職にありながら、那覇の独立勢力・久米村の華人組織にも属していました。久米村は明朝への朝貢や対外貿易を担当する貿易集団でもあり、彼らが琉球の現地権力に協力していたのは、琉球に属することによって、海禁制度のなかで堂々と貿易活動ができたからです(こちらを参照)。おそらく久米村のなかで中山王武寧と結びつき貿易利権を独占した亜蘭匏グループと、王茂をリーダーとする久米村の新興グループとの路線対立が、中山武寧政権が崩壊する伏線としてあったと考えられます。
というのは、思紹・尚巴志が中山を奪取した後、王相の亜蘭匏は歴史上から姿を消し、代わって王茂・程復を王相兼長史にするよう、思紹によって明朝に推薦されているからです(程復は引退して故郷へ帰ったので、名目上の王相兼長史となる)。これは亜蘭匏の王相更迭と、思紹・尚巴志を支援した王茂らの論功行賞の意味あいがあったように思います。
華人集団と尚巴志たちとの関わりは、佐敷按司時代にはそれほど深くなかったと考えられます。何といっても琉球全体の交易活動を事実上一手ににぎる那覇久米村が、片田舎の一按司と深くつながるメリットがほとんどないからです。尚巴志が南山王承察度を打倒して、はじめて王茂ら久米村の新興グループは、武寧・亜蘭匏政権を倒しうる存在として注目することになったはずです。尚巴志と結びつき新たな政権をつくりあげ、そのもとで貿易集団としての久米村の主導権をにぎる、そのような意図を持って大里按司となった思紹・尚巴志に接触を試みたのではないでしょうか。後の第一尚氏政権で王相となる懐機も、王茂を助ける若き同志としてこの新興グループに属していたとみられます。
中山は浦添グスクを拠点に沖縄中部を支配する三山のなかでも最強の勢力でした。国際貿易港の那覇を有し、その土地も肥沃で、他の北山・南山と比べて圧倒的な優位を保っていました。浦添グスクは当時琉球最大の規模を誇っており、城下には寺院や王陵、人口池、家臣たちの居宅が並び、トップレベルの技術者集団も住む、琉球の首都の様相を呈していました。中山王の武寧は1404年(永楽2)、明朝から初めて正式な王として任命(冊封)され、その権威はますます大きくなっていました。
中山王の配下には那覇久米村の華人集団がおり、彼らを中心に明朝の王府組織を模倣した官僚機構がある程度整備されていたとみられます(王府組織についてはこちらを参照)。中山の宰相として「王相」の亜蘭匏(あらんほう)、「長史」に程復・王茂がいました。中山は南山内部の抗争に乗じて島添大里の承察度を失脚させて朝鮮に追い落とし、さらに南山全体もうかがう勢いでした。近世の史書では、この頃の中山は人民を苦しめ、王の武寧はおごり高ぶっていたため、尚巴志がこれを討ったとしています。しかしこれは「勝者から見た歴史」です。中山の状況を見るかぎり、表面上では政権が崩壊するような兆候はうかがえません。
では、尚巴志はどのようにして琉球最強の中山を打倒したのでしょうか。その背景として、中山政権の中枢にいた華人集団たちの対立があるように思います。王相や長史といった華人たちは王府の要職にありながら、那覇の独立勢力・久米村の華人組織にも属していました。久米村は明朝への朝貢や対外貿易を担当する貿易集団でもあり、彼らが琉球の現地権力に協力していたのは、琉球に属することによって、海禁制度のなかで堂々と貿易活動ができたからです(こちらを参照)。おそらく久米村のなかで中山王武寧と結びつき貿易利権を独占した亜蘭匏グループと、王茂をリーダーとする久米村の新興グループとの路線対立が、中山武寧政権が崩壊する伏線としてあったと考えられます。
というのは、思紹・尚巴志が中山を奪取した後、王相の亜蘭匏は歴史上から姿を消し、代わって王茂・程復を王相兼長史にするよう、思紹によって明朝に推薦されているからです(程復は引退して故郷へ帰ったので、名目上の王相兼長史となる)。これは亜蘭匏の王相更迭と、思紹・尚巴志を支援した王茂らの論功行賞の意味あいがあったように思います。
華人集団と尚巴志たちとの関わりは、佐敷按司時代にはそれほど深くなかったと考えられます。何といっても琉球全体の交易活動を事実上一手ににぎる那覇久米村が、片田舎の一按司と深くつながるメリットがほとんどないからです。尚巴志が南山王承察度を打倒して、はじめて王茂ら久米村の新興グループは、武寧・亜蘭匏政権を倒しうる存在として注目することになったはずです。尚巴志と結びつき新たな政権をつくりあげ、そのもとで貿易集団としての久米村の主導権をにぎる、そのような意図を持って大里按司となった思紹・尚巴志に接触を試みたのではないでしょうか。後の第一尚氏政権で王相となる懐機も、王茂を助ける若き同志としてこの新興グループに属していたとみられます。
2006年05月21日
尚巴志の野望(2)
尚巴志が台頭することになった最大の要因は、南山最強の按司であった大里按司を倒せる大きなチャンスがこの時期にめぐってきたことでしょう。佐敷の隣国であった大里は島添(しまおそい。村々を支配する意味)大里とも呼ばれ、大里按司は「南山王・承察度」、琉球世界でいう「下の世の主(しものよのぬし)」として君臨していました。ところが南山は按司連合政権の様相を呈していて、権力が一極に集中してはいませんでした。大里按司は南山の第一の有力按司にすぎず、「王」と呼べるような超越した権力は持っていなかったと考えられます。
1394年(洪武27)、中山王の察度は朝鮮王朝に対して逃亡中の南山王の子、承察度を送還するよう求めており、さらに1398年(洪武31)には南山王の温沙道(うふさと、大里と考えられる)が中山王に追われて亡命しています。前述のように、この亡命劇は中山王武寧が南山の汪応祖を支援してクーデターを起こしたものか、尚巴志との戦いに敗れて逃亡した可能性があるわけですが、いずれにせよ、尚巴志が島添大里を攻略する直前には大里按司の勢力はかなり弱体化していたことは確かなようです。
近世の史書によると、島添大里按司は思紹より家督を継いだ尚巴志を「英明神武にして擎天(天を支える)の翼あり」として非常に恐れていました。尚巴志は機先を制して大里按司を急襲、佐敷按司軍には勇健の兵が多く、大里按司軍は壊滅してしまいます。これにより尚巴志は大里を手中にし、その威名大いに振るったとあります。日本の戦国時代でいう信長の桶狭間の戦いに匹敵する大勝利を得て、琉球国中に「佐敷の小按司」の名を轟かせることになったのです。
思紹・尚巴志は大里按司の打倒後、佐敷グスクから大里グスクへ拠点を移したとみられます。というのは、第一尚氏時代の記録には首里城の南に同じ規模の「旧宮」があり、国王は数百名の兵を連れて「常居の宮(首里城)」と「旧宮」の間を往来していたとあるからです。この「旧宮」とは島添大里グスクのことでしょう。大里グスクは1458年(天順2)まで使用されていたことが、大里城に寄進された尚泰久王の雲板(禅宗で使うドラのような板)から確認できます。近年の発掘調査によると、大里グスクは当時の首里城とほぼ同じ大きさの面積2万平方メートルの大型グスクであることが確認され、また出土遺物から15~16世紀頃まで使用されていたことがわかっています。
近世の史書『中山世鑑』では、尚巴志は大里按司を打倒して、まず南山王になったと書かれています。たしかに尚巴志によって「南山王」であった大里按司が打倒され、巴志が大里グスクに入って新たな「大里按司」になったのは事実です。しかし、「南山王」はあくまで明朝の立場から見たものであり、さらに当時の琉球では「世の主」は「王」の血筋で受け継がれるものではなく、按司たちの合意のもと、その時々の有力者によって担われていました。よって大里按司を滅亡させたからといって、ただちに尚巴志が南山王になるわけではありません。現に承察度の次には「王弟」の汪応祖が南山王となっています。『中山世鑑』では当時の状況を近世的な観念から解釈したため、あのような記述になったと考えられます。
1394年(洪武27)、中山王の察度は朝鮮王朝に対して逃亡中の南山王の子、承察度を送還するよう求めており、さらに1398年(洪武31)には南山王の温沙道(うふさと、大里と考えられる)が中山王に追われて亡命しています。前述のように、この亡命劇は中山王武寧が南山の汪応祖を支援してクーデターを起こしたものか、尚巴志との戦いに敗れて逃亡した可能性があるわけですが、いずれにせよ、尚巴志が島添大里を攻略する直前には大里按司の勢力はかなり弱体化していたことは確かなようです。
近世の史書によると、島添大里按司は思紹より家督を継いだ尚巴志を「英明神武にして擎天(天を支える)の翼あり」として非常に恐れていました。尚巴志は機先を制して大里按司を急襲、佐敷按司軍には勇健の兵が多く、大里按司軍は壊滅してしまいます。これにより尚巴志は大里を手中にし、その威名大いに振るったとあります。日本の戦国時代でいう信長の桶狭間の戦いに匹敵する大勝利を得て、琉球国中に「佐敷の小按司」の名を轟かせることになったのです。
思紹・尚巴志は大里按司の打倒後、佐敷グスクから大里グスクへ拠点を移したとみられます。というのは、第一尚氏時代の記録には首里城の南に同じ規模の「旧宮」があり、国王は数百名の兵を連れて「常居の宮(首里城)」と「旧宮」の間を往来していたとあるからです。この「旧宮」とは島添大里グスクのことでしょう。大里グスクは1458年(天順2)まで使用されていたことが、大里城に寄進された尚泰久王の雲板(禅宗で使うドラのような板)から確認できます。近年の発掘調査によると、大里グスクは当時の首里城とほぼ同じ大きさの面積2万平方メートルの大型グスクであることが確認され、また出土遺物から15~16世紀頃まで使用されていたことがわかっています。
近世の史書『中山世鑑』では、尚巴志は大里按司を打倒して、まず南山王になったと書かれています。たしかに尚巴志によって「南山王」であった大里按司が打倒され、巴志が大里グスクに入って新たな「大里按司」になったのは事実です。しかし、「南山王」はあくまで明朝の立場から見たものであり、さらに当時の琉球では「世の主」は「王」の血筋で受け継がれるものではなく、按司たちの合意のもと、その時々の有力者によって担われていました。よって大里按司を滅亡させたからといって、ただちに尚巴志が南山王になるわけではありません。現に承察度の次には「王弟」の汪応祖が南山王となっています。『中山世鑑』では当時の状況を近世的な観念から解釈したため、あのような記述になったと考えられます。
2006年04月27日
尚巴志の野望(1)
ここまで「グスクの海」の時代を理解するための前提をお話ししてきましたが、いよいよ本編の尚巴志の琉球統一までの戦いを紹介していこうと思います。
中山王として琉球王国を樹立した尚巴志(しょうはし)はもともと南山の佐敷を本拠地にする按司でした。後に姓が尚、名が巴志とされますが、これは中国側が勝手にそう解釈したもののようです。というのは、この時期の琉球人の名前は中国式ではなく、後に童名(わらびなー)として残る琉球式の名前しかなかったからです。例えば他魯毎は「太郎思い(たるもい)」、帕尼芝は「羽地(はねじ)」というようにです。尚巴志は身長が150センチ足らずで、「佐敷の小按司」と呼ばれていました。尚巴志とは「小按司(しょうあじ)」、あるいは「サバチ」という名前を当てたものと考えられます。神号は「勢治高真物(せぢだかまもの)」。“霊力高く畏怖尊敬される者”ぐらいの意味でしょうか。
父は思紹(ししょう)。「シチャ」の当て字とも。巴志に対して「佐敷の大按司」とも呼ばれました。神号は「君志真物(きみしまもの)」。伝承によると、もとは苗代大親(なえしろ・うふや)と呼ばれ、妹は馬天祝女(ばてんノロ)であったといいます。思紹の父は伊平屋島出身の鮫川大主(うふぬし)。神託により南山へ移り、そこで大城按司の娘と結婚して生まれたのが思紹とのことです。伝承の真偽は置いておくとして、14世紀後半には思紹・尚巴志親子が佐敷を拠点に勢力を持つ按司だったことは確実です。
最大の謎は、南山の小さな勢力だった佐敷按司がなぜ王位を狙うほどに強大化したかということです。佐敷グスクは山の中腹に平場を造成して4段の郭をつくり、主に土塁で防御する比較的小さいグスクです。とても琉球を統一できるほどの力があるとは思えません。しかし、佐敷は14世紀後半あたりから強大な勢力となれる数々の有利な条件にめぐまれていくのです。まずは尚巴志個人の軍事的才能が優れていたことがあげられるでしょう。思紹という父の存在がありながらも、統一事業はほとんど尚巴志の主導で行われています。琉球統一は尚巴志という存在があって初めて成り立ちえたといるのではないでしょうか。
さらに沖縄島中南部の東海岸における農業生産の違いが、他地域との「国力」の差を生んだのではないかという説があります。それまで東海岸は農業後進地帯でしたが、この頃から「水稲二期作」という新方式がこの地域に導入され、豊かな水田地帯へと変貌したのです。
そしてこの「国力」を背景にしての対外貿易の推進。佐敷グスクの眼下に広がる海は湾状になっていて、港湾拠点の馬天港は天然の良港でした。この地理的有利を生かして積極的な貿易に乗り出すことができたと考えられます。その事実は尚巴志がヤマトの貿易船から鉄を買い、領民に分け与えたとする伝承からもうかがえます。当時の鉄器は沖縄では産出しない貴重品。現代でいう「レアメタル」のような存在です。その希少品を惜しげもなく与える経済力が佐敷按司にはあったということを意味しています。
中山王として琉球王国を樹立した尚巴志(しょうはし)はもともと南山の佐敷を本拠地にする按司でした。後に姓が尚、名が巴志とされますが、これは中国側が勝手にそう解釈したもののようです。というのは、この時期の琉球人の名前は中国式ではなく、後に童名(わらびなー)として残る琉球式の名前しかなかったからです。例えば他魯毎は「太郎思い(たるもい)」、帕尼芝は「羽地(はねじ)」というようにです。尚巴志は身長が150センチ足らずで、「佐敷の小按司」と呼ばれていました。尚巴志とは「小按司(しょうあじ)」、あるいは「サバチ」という名前を当てたものと考えられます。神号は「勢治高真物(せぢだかまもの)」。“霊力高く畏怖尊敬される者”ぐらいの意味でしょうか。
父は思紹(ししょう)。「シチャ」の当て字とも。巴志に対して「佐敷の大按司」とも呼ばれました。神号は「君志真物(きみしまもの)」。伝承によると、もとは苗代大親(なえしろ・うふや)と呼ばれ、妹は馬天祝女(ばてんノロ)であったといいます。思紹の父は伊平屋島出身の鮫川大主(うふぬし)。神託により南山へ移り、そこで大城按司の娘と結婚して生まれたのが思紹とのことです。伝承の真偽は置いておくとして、14世紀後半には思紹・尚巴志親子が佐敷を拠点に勢力を持つ按司だったことは確実です。
最大の謎は、南山の小さな勢力だった佐敷按司がなぜ王位を狙うほどに強大化したかということです。佐敷グスクは山の中腹に平場を造成して4段の郭をつくり、主に土塁で防御する比較的小さいグスクです。とても琉球を統一できるほどの力があるとは思えません。しかし、佐敷は14世紀後半あたりから強大な勢力となれる数々の有利な条件にめぐまれていくのです。まずは尚巴志個人の軍事的才能が優れていたことがあげられるでしょう。思紹という父の存在がありながらも、統一事業はほとんど尚巴志の主導で行われています。琉球統一は尚巴志という存在があって初めて成り立ちえたといるのではないでしょうか。
さらに沖縄島中南部の東海岸における農業生産の違いが、他地域との「国力」の差を生んだのではないかという説があります。それまで東海岸は農業後進地帯でしたが、この頃から「水稲二期作」という新方式がこの地域に導入され、豊かな水田地帯へと変貌したのです。
そしてこの「国力」を背景にしての対外貿易の推進。佐敷グスクの眼下に広がる海は湾状になっていて、港湾拠点の馬天港は天然の良港でした。この地理的有利を生かして積極的な貿易に乗り出すことができたと考えられます。その事実は尚巴志がヤマトの貿易船から鉄を買い、領民に分け与えたとする伝承からもうかがえます。当時の鉄器は沖縄では産出しない貴重品。現代でいう「レアメタル」のような存在です。その希少品を惜しげもなく与える経済力が佐敷按司にはあったということを意味しています。
2006年02月06日
第一尚氏王朝の官制
1429年、琉球を統一した尚巴志の政権は「第一尚氏王朝」と呼ばれています。この政権はどのような政治組織で運営されていたのか、確認できる範囲で解説したいと思います。
特徴として挙げられるのは、政権の中枢に華人たちが多く登用されていることです。琉球王府という名称も先に述べたように中国の王府制度を模倣したものでした。もちろん、琉球土着の按司層らもそのなかに参加していましたが、彼らは自らが領有する地域のグスクに拠点を持っていたので、完全に中央組織に取り込まれてはいなかったようです。
第一尚氏王朝は、「佐敷按司時代からの尚巴志グループ(中山王側近)」+「久米村の華人集団」+「各地域の按司連合(護佐丸、阿麻和利など)」で成り立っていたと考えられます。
《王府》
◆国王 琉球国中山王。琉球語で「世の主(よのぬし)」と称する。
◆王相(おうしょう) 王府内に設置された王相府の長。華僑集団「久米村」の統括者であるとともに中山王府の最高政治顧問。明朝の正五品に相当。
◆長史(ちょうし) 王府長史司の長。左右の長史2名。王を補佐、王命を伝達する。
◆典簿(てんぼ) 王府長史司に属する。公文書などを扱う。
◆千戸(せんこ) 千戸所の長。千戸所は明朝の地方軍事組織。千人の兵を統率する。琉球では名目上の職だったと考えられる。
◆通事(つうじ) 対明外交の通訳官。
◆火長(かちょう) 航海長。琉球貿易船の船長。
◆管船直庫(かんせんちょっこ) 琉球貿易船の護衛隊長。琉球人が就く。
◆梢水(しょうすい) 琉球貿易船の水夫。
◆執礼等事官(しつれいとうじかん) 王相の統括下で対外交渉に従事する官。のちの御物城御鎖之側(おものぐすくおさすのそば)とする説がある。琉球人が任命された。
《地方》
◆按司(あじ) 寨官(さいかん)ともいう。グスクを拠点に各地方に割拠する首長。
◆掟(おきて。うっち) 結制・結致ともいう。按司の下にいる各地方の行政官のような役割だと考えられる。対外貿易にも派遣される。
特徴として挙げられるのは、政権の中枢に華人たちが多く登用されていることです。琉球王府という名称も先に述べたように中国の王府制度を模倣したものでした。もちろん、琉球土着の按司層らもそのなかに参加していましたが、彼らは自らが領有する地域のグスクに拠点を持っていたので、完全に中央組織に取り込まれてはいなかったようです。
第一尚氏王朝は、「佐敷按司時代からの尚巴志グループ(中山王側近)」+「久米村の華人集団」+「各地域の按司連合(護佐丸、阿麻和利など)」で成り立っていたと考えられます。
《王府》
◆国王 琉球国中山王。琉球語で「世の主(よのぬし)」と称する。
◆王相(おうしょう) 王府内に設置された王相府の長。華僑集団「久米村」の統括者であるとともに中山王府の最高政治顧問。明朝の正五品に相当。
◆長史(ちょうし) 王府長史司の長。左右の長史2名。王を補佐、王命を伝達する。
◆典簿(てんぼ) 王府長史司に属する。公文書などを扱う。
◆千戸(せんこ) 千戸所の長。千戸所は明朝の地方軍事組織。千人の兵を統率する。琉球では名目上の職だったと考えられる。
◆通事(つうじ) 対明外交の通訳官。
◆火長(かちょう) 航海長。琉球貿易船の船長。
◆管船直庫(かんせんちょっこ) 琉球貿易船の護衛隊長。琉球人が就く。
◆梢水(しょうすい) 琉球貿易船の水夫。
◆執礼等事官(しつれいとうじかん) 王相の統括下で対外交渉に従事する官。のちの御物城御鎖之側(おものぐすくおさすのそば)とする説がある。琉球人が任命された。
《地方》
◆按司(あじ) 寨官(さいかん)ともいう。グスクを拠点に各地方に割拠する首長。
◆掟(おきて。うっち) 結制・結致ともいう。按司の下にいる各地方の行政官のような役割だと考えられる。対外貿易にも派遣される。



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