2005年08月03日

三山形成前史(3)

変化の波をこうむった琉球列島内では、居住する人々の生活スタイルも新たな段階を迎えることになりました。サンゴ礁海域の浅瀬(ラグーン。沖縄ではイノーと呼ぶ)にある豊富な海産物に依存する生活から、天然の湧き水を利用して穀物を栽培する農耕生活が開始されたのです。

ただし農耕といっても、その方法はヘラで一つずつ小さな穴を掘って種を植えるという非常に原始的なものでした(この農法は第一尚氏の尚徳王の時代にいたっても続けられています)。それまでの漁労・交易社会は完全に無くなったのではなく、原始的農耕とともに継続して行われたとみられています。

農業社会の成立にともない、首長(リーダー)を頂点とした政治集団が各地で誕生することになります。それが「按司(あぢ、あんじ)」の率いる共同体です。この頃の琉球社会を知ることができる貴重な史料に『漂到流球国記』があります。『漂到流球国記』は1243年(寛元元)に日本の肥前国(長崎)から宋へ渡ろうとした船が琉球に漂着した際の記録です。琉球を野蛮視する先入観が入ったものですが、リーダーを中心とした地域集団の様子をうかがうことができます。

船頭と乗客たちは漂着した琉球の地で海上から10隻ほどの船団に襲撃されます。そのなかには赤い服とハチマキをつけた一人の「将軍」がいて、部下たちは鉾(ほこ)と盾(たて)を持っていっせいに矢を撃ち、ある者は盾を持ち泳ぎながら近づいてきたといいます(後に和解して武装を解く)。サバニのような小舟を自在にあやつり、水上戦闘に通じた「海の民」としての特徴にくわえ、「按司」とみられる指導者の存在もうかがうことができます。1243年は、王統で言えばちょうど舜天王統の時代にあたります。

各地の「按司」はまず集落(古琉球ではシマと呼ぶ)の指導者から発生していったと考えられます。古琉球の歌謡集『おもろさうし』では、各地のシマ(集落)の指導者を「てだ(太陽)」や「あぢ(按司)」、「世の主(よのぬし)」と呼んでいますが、やがていくつものシマを束ねた「あぢおそいてだ(按司襲いテダ)」、「あぢの又のあぢ(按司の中の按司)」が登場し、最終的に「三山」というかたちへと収斂していくのです。

また各シマには、姉妹が兄弟を霊的に守護するというオナリ神信仰をもとにした神女(ノロ)がいて、「せぢ(霊力)」を駆使して様々な祭祀をとり行いました。シマ内には御嶽(うたき)と呼ばれる聖地が存在し、シマの重要な場所として、後のグスクの原型ともなります。

グスクとは琉球列島に300近くもある遺跡で、一般に「城」として理解されていますが、実は城塞的なグスクというのは全体のごく一部にすぎません。御嶽や墓などをグスクと呼んでいたり、小高い丘の頂上を低い石積みで囲っただけグスクなど様々な形態があるのが特徴です。グスクは当初の聖域や集落にすぎなかったものが発展して、世界遺産に登録されているような城塞的グスクになっていったと考えられています。ただし小型のグスクでも様々な構築物で防御された例もあり、また奄美地域や沖縄本島北部では日本の中世城郭とほとんど変わらない土塁や切岸などでつくられた「土からなるグスク」も存在することが明らかになってきています(名護グスクや親川グスク、奄美の赤木名グスクなど)。

グスクと集落の関係を分析した研究によると、集落はそれまで立地していた低地からグスク時代中頃(13世紀後半~14世紀前半)になって高地に移動し、柵を設けるなど防御的性格を持ってくるといいます。グスク時代の終わり頃(14世紀後半~15世紀)には城館的施設をそなえた集落が登場し、やがて集落と城館的施設は分化して集落は丘陵のふもとに移動し、丘陵には城塞的グスクがつくられていくという傾向があるそうです。つまりグスク時代に入って、集落の防御を必要とする戦乱と、権力者と支配される者を決定的に分ける社会関係が生まれてきたことを表わしているのです。  

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2005年07月31日

三山形成前史(2)

琉球列島全域に流通したカムィヤキ・石鍋は何を物語るのでしょうか。カムィヤキの大規模生産の開始は日本・高麗陶器の製作技術、窯の建造・運営などの高度なノウハウがあり、さらに完成した陶器を琉球各地で売買するための海運・航海技術を持った組織的な集団がいたことを意味します。長崎産の石鍋についても、九州から琉球列島にかけて石鍋を交易品として売買を行う商人がいたことを意味します。石鍋は琉球の人々にとって羨望の高級品だったようで、石鍋をそっくり真似た土器が数多く作られるようになります。外部からのインパクトが大きかったことがうかがえます。

11世紀頃(日本では平安時代)に書かれた『新猿楽記』には、東北地方から「貴賀が島(鹿児島県の硫黄島または喜界島。中世日本の西の境界を象徴的にこう表現した)」を往来する八郎真人(まひと)と呼ばれる商人が登場しますが、彼に象徴されるような広域を移動するヤマト商人と、琉球を本拠地にした商人たちが互いに交易を行っていたとみられます。鉄器もこのような交易で琉球に入ってきたことでしょう。

琉球が外部から受けた変動は、当時の東アジアの国際環境と連動するものであったと考えられます。10世紀、宋代中国の商業発展によって、宋の海商は日本や高麗、東南アジアやアラビア海まで進出し活発な交易活動が行われました。宋海商は日本にもさかんに来航し、博多には「唐坊」と呼ばれるチャイナタウンが形成され、陶磁器などがもたらされます。琉球でもごく少数ですが12世紀以降、南宋の白磁碗が入ってきたようです。ただしこの時期の宋と琉球は、後の明との交流と比べるとそれほど活発ではありませんでした。交流のメインルートは、朝鮮半島・九州から琉球列島に伸びる航路だったとみられます。

さらにグスク時代に入ると琉球列島人の形質も中世日本人のものと近くなっていきます。最近の遺伝学や形質人類学の研究では、琉球人と縄文人・アイヌ人の関係は実は遠いものであったことが明らかにされています。グスク時代の“大交流時代”の到来を通じて、先住民と渡来者が融合し、琉球列島に住む人々も大きく変化していったのです。  

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2005年07月31日

三山形成前史(1)

「グスクの海」の時代を見る前提として、まずはじめに三山が形成されるまでの時代を簡単に見ていきたいと思います。漁猟採集が中心だった貝塚時代の沖縄は11~12世紀頃になると大きな変動を迎えます。「グスク時代」の始まりです。農耕と鉄器使用が開始され、各地の共同体から「按司(あじ)」と呼ばれる首長が登場して、やがて琉球の「戦国時代」に突入します。

これらの変化の背景となったのは、かつてないヒト・モノの“大交流時代”の到来でした。この時期、琉球列島全域で「カムィヤキ」と「石鍋」という商品が流通しはじめます。カムィヤキ(亀焼)は灰色の陶器で「類須恵器」とも呼ばれ、中世日本の陶器や朝鮮半島の高麗陶器とよく似た特徴があるといわれています。11世紀から14世紀頃まで徳之島で大規模な生産が行われており、鹿児島県から与那国島までの広い地域で流通していました。カムィヤキは琉球史上初めて琉球で生産された域内向けの商品でした。石鍋は11世紀頃、長崎の西彼杵(そのぎ)産の滑石と呼ばれる石で作られた高級品で、西日本を中心に関東まで使用されていましたが、これが琉球列島の波照間島まで流通するようになります。

それまでの琉球列島はヤマト(日本本土)地域につながった《奄美・沖縄地域》とフィリピン・台湾など東南アジア地域との関連があるとされる《先島地域》に文化圏が分かれ、両者には全く交流がありませんでしたが、11世紀頃から二つの異文化圏が一つの文化・経済圏として成立することになったのです。この「琉球文化圏」は、後の琉球王国の領域とも重なる領域として注目されます。もちろんこの文化圏は画一的なものではなく、各地域にそれぞれの独自性を持っていました。つまり圏域全体がゆるやかな形で結びついていたと言えます。

グスク時代以前にも琉球列島から赤木・夜光貝などを交易品として、不定期にヤマトの律令国家へ「朝貢」するなどヤマトとの交流は行われていたようですが、質量ともに飛躍的に増大するのは12世紀頃になってからです。ちなみに南島人の律令国家への「朝貢」をもって琉球列島が「日本」の領内だった、と主張することはできません。琉球列島にヤマトの国郡制は設置されず実効支配は行われませんでしたし、自国中心主義をとるヤマト国家は、朝鮮半島の新羅使節や大宰府に来航する中国商人すらも「朝貢」のニュアンスでとらえていました。ここから朝鮮半島や中国まで「日本」だったと主張することはできません。南島人は交易がメインだったのであって、あくまで名目的な「朝貢」だったと考えるべきでしょう。(つづく)
  

Posted by トラヒコ at 14:02Comments(5)TrackBack(0)グスク時代