2005年08月28日
おきなわの「琉球化」と中国文化の導入(2)
琉球への中国式官制の導入にあわせて、新たな権威・身分の指標として中国冠服が加わりました。明朝成立とともに、それまでのモンゴルの風俗に代わる伝統的な漢民族の服制が整備され、身分ごとに着用すべき服が厳格に定められました。
琉球へはまず1392年(洪武25)、在琉華人の程復らが「琉球の人々の尊敬を集め、野蛮な国俗を改めるため」にという要請で洪武帝から冠服が授与され、その後、三山の王たちも先を争って中国冠服を入手します。豪華で明朝のランクに公的に位置付けられたプレミアグッズを手に入れることで、「文明化」された象徴として、琉球のなかで優位な立場にあることを視覚的に訴えることができたのです。これ以降、明式の冠服は琉球の正装として定着することになります。※琉球へ導入された中国冠服はこちらを参照。
中国冠服は常に着用していたのではなく、重要な儀式で使用されました。王のグスクでは皇帝の誕生日や元旦などの中国式儀礼が新たに行われ、王や按司、華人たちが明服で儀式にのぞみました。明から王に与えられた冠服は、さらに按司や家臣などに与えられ、琉球には明服を「着る者」と「着ざる者」という目に見える新しい身分秩序ができたのです。しかし明服は琉球人にとってなじまなかったようで、儀式中に明服を着た琉球人は非常に窮屈そうにしていて終わればすぐ脱いでしまうと、ある記録にあります。
そして三山の王は冊封(明皇帝から王に任命される)の際に「皮弁(ひべん)冠服」が与えられました。王の皮弁冠服は明の「郡王」ランクに位置付けられていました(日本や朝鮮はひとつ上の「親王」ランク)。琉球ではこの皮弁冠服を、日本の三種の神器のような王権のレガリア(象徴物)としました。また明の使節が持ってきた王の任命書(詔勅)を琉球ではわざわざ貰い受け、代々「鎮国の宝」としました。皇帝より下賜された王印も、王が王たるゆえんとして神聖視されたものとみられます。このように琉球世界には「中国」という新たな権威が加わったのです。
さらに中国から琉球に導入されたものに暦がありました。朝貢国となった琉球では全て中国年号が使用され、明からは毎年大統暦(いわゆるカレンダー)100本が支給されました。これらは各地の按司や家臣に配られ、王のグスクで行われる儀礼に参加するための正確な日取りを把握することが可能になりました。
明からもたらされた実用品なども琉球社会に広く流通することになりました。陶磁器や鉄釜、絹織物、そして銅銭や鈔(紙幣)などです。とくに陶磁器は重宝され、一度に7万個もの数が琉球にもたらされた例があります。これらは貿易品として日本や東南アジアに転売されるだけでなく、王や按司たちも自分のものとして入手しました。グスクの調査などでは大量の陶磁器片が出土しますが、当時の権力者が外来の珍品を自らの居城にストックしていたことがわかります。
銅銭や鈔(しょう)などの貨幣・紙幣も大半が貿易の決済に使われたとみられますが(とくに日本は一時期、国内で流通する銅銭を琉球に求めていた)、琉球内においても一部(おそらく那覇を中心)に貨幣経済が導入されたと考えられます。鈔も大量に琉球に入ってきていました。鈔(大明宝鈔)は1375年(洪武8)に発行された高額紙幣ですが、濫発されたためインフレになり、1470年代(尚円王の頃)には500分の1に暴落して無価値になってしまいます。琉球でも発行当初には高価値のものとして流通していたはずです。
このように明への朝貢の開始は中国文化をもたらし、琉球に絶大な影響を与えました。しかし、それまでの「沖縄的社会」は全く無くなってしまったのではなく、例えば明治維新で西洋文化が流入した日本で和文化が全く無くならなかったように、「文明開化」した琉球でも土着の文化はしぶとく生き残り、「和魂洋才」ならぬ「琉魂中才」されるのです。
琉球へはまず1392年(洪武25)、在琉華人の程復らが「琉球の人々の尊敬を集め、野蛮な国俗を改めるため」にという要請で洪武帝から冠服が授与され、その後、三山の王たちも先を争って中国冠服を入手します。豪華で明朝のランクに公的に位置付けられたプレミアグッズを手に入れることで、「文明化」された象徴として、琉球のなかで優位な立場にあることを視覚的に訴えることができたのです。これ以降、明式の冠服は琉球の正装として定着することになります。※琉球へ導入された中国冠服はこちらを参照。
中国冠服は常に着用していたのではなく、重要な儀式で使用されました。王のグスクでは皇帝の誕生日や元旦などの中国式儀礼が新たに行われ、王や按司、華人たちが明服で儀式にのぞみました。明から王に与えられた冠服は、さらに按司や家臣などに与えられ、琉球には明服を「着る者」と「着ざる者」という目に見える新しい身分秩序ができたのです。しかし明服は琉球人にとってなじまなかったようで、儀式中に明服を着た琉球人は非常に窮屈そうにしていて終わればすぐ脱いでしまうと、ある記録にあります。
そして三山の王は冊封(明皇帝から王に任命される)の際に「皮弁(ひべん)冠服」が与えられました。王の皮弁冠服は明の「郡王」ランクに位置付けられていました(日本や朝鮮はひとつ上の「親王」ランク)。琉球ではこの皮弁冠服を、日本の三種の神器のような王権のレガリア(象徴物)としました。また明の使節が持ってきた王の任命書(詔勅)を琉球ではわざわざ貰い受け、代々「鎮国の宝」としました。皇帝より下賜された王印も、王が王たるゆえんとして神聖視されたものとみられます。このように琉球世界には「中国」という新たな権威が加わったのです。
さらに中国から琉球に導入されたものに暦がありました。朝貢国となった琉球では全て中国年号が使用され、明からは毎年大統暦(いわゆるカレンダー)100本が支給されました。これらは各地の按司や家臣に配られ、王のグスクで行われる儀礼に参加するための正確な日取りを把握することが可能になりました。
明からもたらされた実用品なども琉球社会に広く流通することになりました。陶磁器や鉄釜、絹織物、そして銅銭や鈔(紙幣)などです。とくに陶磁器は重宝され、一度に7万個もの数が琉球にもたらされた例があります。これらは貿易品として日本や東南アジアに転売されるだけでなく、王や按司たちも自分のものとして入手しました。グスクの調査などでは大量の陶磁器片が出土しますが、当時の権力者が外来の珍品を自らの居城にストックしていたことがわかります。
銅銭や鈔(しょう)などの貨幣・紙幣も大半が貿易の決済に使われたとみられますが(とくに日本は一時期、国内で流通する銅銭を琉球に求めていた)、琉球内においても一部(おそらく那覇を中心)に貨幣経済が導入されたと考えられます。鈔も大量に琉球に入ってきていました。鈔(大明宝鈔)は1375年(洪武8)に発行された高額紙幣ですが、濫発されたためインフレになり、1470年代(尚円王の頃)には500分の1に暴落して無価値になってしまいます。琉球でも発行当初には高価値のものとして流通していたはずです。
このように明への朝貢の開始は中国文化をもたらし、琉球に絶大な影響を与えました。しかし、それまでの「沖縄的社会」は全く無くなってしまったのではなく、例えば明治維新で西洋文化が流入した日本で和文化が全く無くならなかったように、「文明開化」した琉球でも土着の文化はしぶとく生き残り、「和魂洋才」ならぬ「琉魂中才」されるのです。
2005年08月26日
おきなわの「琉球化」と中国文化の導入(1)
察度が明朝との冊封・朝貢関係を結んでから、グスク時代以来の琉球社会は再び変化の波を蒙ることになります。まずは沖縄島に住む人々の意識の変化です。琉球諸島・台湾を中国側では漠然と「瑠求・流球」などと呼んでいましたが、ここにきて奄美・沖縄・先島地域が「(大)琉球」と明確に位置付けられました(台湾は「小琉球」と呼ばれます)。
「琉球」は中国側が勝手に付けた呼び方であって、沖縄の人々はもともと自分たちの住む地域を「おきなわ(沖縄)」と呼んでいたようです。それが朝貢の開始によって自らも「琉球」と自称するようになります。たとえば中山王となった思紹は、日本の室町将軍に対して自らを「りうきう国のよのぬし(琉球国の世の主)」と称しています。「世の主」はグスク時代から続く沖縄的呼称なのですが、自らの地域を「おきなわ国」でなく新たな中国風の呼称である「琉球」としているのです。沖縄の人々は「琉球」という呼び名を我がものとしたのです。
また注目されるのが、華人たちの政権中枢への参加と中国式官制の導入です。朝貢活動のために派遣された明人スタッフ(閩人三十六姓)は、船長や水夫などの大型海船を操作する航海技術者だけでなく、外交文書作成のための文人や、通訳なども含まれていました。三山は朝貢活動を行うには彼らがいなくては成り立たず、ほぼ全面的に依存していました。
当時の久米村は前述のように三山政権から一定の距離を置いた自治的な地区だったと考えられますが、三山の各政権は中国への進貢船派遣を華人たちに委託するかたちで行っていたようです。対立していた三山ですが、朝貢使節に関しては中山と北山の使節が同時に派遣された例があるなど、朝貢や交易活動は那覇の久米村を介するかたちで比較的、協調的に行われていたとみられます。
さらに交易支援集団の久米村から三山の各政権に結びつく勢力も現れます。華人の亜蘭匏(あらんほう)は、初期に察度の使者として中山の朝貢活動を一手に握っていましたが、やがて1394年(洪武27)、察度の要求によって明皇帝より琉球国の王相(おうしょう)に任じられ、正五品を授けられました。亜蘭匏は察度政権と結びついて中山の最高政治顧問としての地位を獲得し、それを明から公的に認めてもらうことで久米村勢力の主導権を握ったと考えられます。また李仲(りちゅう)は、はじめ北山王の使者として明に派遣されていますが、後に南山王の使者、しかも按司として登場します。そのほか、久米村の華人は明皇帝から「長史(ちょうし)」や「典簿(てんぼ)」という地位を授かる者たちが出てきます。
ここで興味深い点が、華人たちが「王相」や「長史」、「典簿」に任命された事実です。これは琉球独自のものではなく、明の「王府制度」内の役職と同じものでした。琉球の政権はなぜ「琉球王府」と名乗っていたのでしょうか。実は、これは中国の「王府制度」に由来するものなのです。洪武帝は皇子たち皇族を「王」として各地に封じましたが(例えば後の永楽帝は北京に封じられ「燕王」を名乗っていました)、この王の下にあった諸機関が「王府」でした。
王府は「王相府」「長史司」「典膳所」などで構成されていましたが、琉球の華人たちはこの明の王府制度をモデルに編成されたのです。さらに中山政権が「王府」を自称していることから、この制度は久米村華人のものだけではなく、それまでの按司を基礎にする連合政権の中枢に、華人集団が食い込んで新たにできた体制であったことがうかがえます。
華人が国政に参加する体制は中山、とくに第一尚氏王朝でその傾向が強く見られます。三山は久米村の華人をいかに政権内に取り込み利用するか。それが覇権を握る条件のひとつとなったことでしょう。また久米村も一様でなく、様々な勢力が三山の政権と手を組むことで久米村の華人集団の主導権や交易活動を有利に進めようと図っていたはずです。
「琉球」は中国側が勝手に付けた呼び方であって、沖縄の人々はもともと自分たちの住む地域を「おきなわ(沖縄)」と呼んでいたようです。それが朝貢の開始によって自らも「琉球」と自称するようになります。たとえば中山王となった思紹は、日本の室町将軍に対して自らを「りうきう国のよのぬし(琉球国の世の主)」と称しています。「世の主」はグスク時代から続く沖縄的呼称なのですが、自らの地域を「おきなわ国」でなく新たな中国風の呼称である「琉球」としているのです。沖縄の人々は「琉球」という呼び名を我がものとしたのです。
また注目されるのが、華人たちの政権中枢への参加と中国式官制の導入です。朝貢活動のために派遣された明人スタッフ(閩人三十六姓)は、船長や水夫などの大型海船を操作する航海技術者だけでなく、外交文書作成のための文人や、通訳なども含まれていました。三山は朝貢活動を行うには彼らがいなくては成り立たず、ほぼ全面的に依存していました。
当時の久米村は前述のように三山政権から一定の距離を置いた自治的な地区だったと考えられますが、三山の各政権は中国への進貢船派遣を華人たちに委託するかたちで行っていたようです。対立していた三山ですが、朝貢使節に関しては中山と北山の使節が同時に派遣された例があるなど、朝貢や交易活動は那覇の久米村を介するかたちで比較的、協調的に行われていたとみられます。
さらに交易支援集団の久米村から三山の各政権に結びつく勢力も現れます。華人の亜蘭匏(あらんほう)は、初期に察度の使者として中山の朝貢活動を一手に握っていましたが、やがて1394年(洪武27)、察度の要求によって明皇帝より琉球国の王相(おうしょう)に任じられ、正五品を授けられました。亜蘭匏は察度政権と結びついて中山の最高政治顧問としての地位を獲得し、それを明から公的に認めてもらうことで久米村勢力の主導権を握ったと考えられます。また李仲(りちゅう)は、はじめ北山王の使者として明に派遣されていますが、後に南山王の使者、しかも按司として登場します。そのほか、久米村の華人は明皇帝から「長史(ちょうし)」や「典簿(てんぼ)」という地位を授かる者たちが出てきます。
ここで興味深い点が、華人たちが「王相」や「長史」、「典簿」に任命された事実です。これは琉球独自のものではなく、明の「王府制度」内の役職と同じものでした。琉球の政権はなぜ「琉球王府」と名乗っていたのでしょうか。実は、これは中国の「王府制度」に由来するものなのです。洪武帝は皇子たち皇族を「王」として各地に封じましたが(例えば後の永楽帝は北京に封じられ「燕王」を名乗っていました)、この王の下にあった諸機関が「王府」でした。
王府は「王相府」「長史司」「典膳所」などで構成されていましたが、琉球の華人たちはこの明の王府制度をモデルに編成されたのです。さらに中山政権が「王府」を自称していることから、この制度は久米村華人のものだけではなく、それまでの按司を基礎にする連合政権の中枢に、華人集団が食い込んで新たにできた体制であったことがうかがえます。
華人が国政に参加する体制は中山、とくに第一尚氏王朝でその傾向が強く見られます。三山は久米村の華人をいかに政権内に取り込み利用するか。それが覇権を握る条件のひとつとなったことでしょう。また久米村も一様でなく、様々な勢力が三山の政権と手を組むことで久米村の華人集団の主導権や交易活動を有利に進めようと図っていたはずです。
2005年08月22日
朝貢の開始と国際都市那覇の形成(3)
琉球はなぜ明朝から格段の優遇をうけたのでしょうか。その理由として琉球の朝貢品であった馬と硫黄が、明朝にとって北方に逃亡したモンゴルの脅威に備えるために必要であったからという考えがあります。馬は軍馬として、硫黄は銃砲に使用する火薬の原料として重宝されたのです。
たしかに三山時代には、明からの使節が琉球で馬と硫黄を大量に買い付けていて、対モンゴル用の軍需物資の調達先として琉球があったことは間違いありません。しかしそれは一時的なものであり、それだけで全てを説明できるわけではありません。実は明朝の琉球優遇策には、当時の明をとりまく国内・対外情勢と政策とが密接に関係していました。
建国当初の明の対外政策は元代と同様、市舶司(しはくし。今でいう税関)の管理下での民間交易を認めていましたが、反明勢力の張士誠・方国珍や倭寇が沿岸を荒らして治安が悪化したため、対策として民間の海外貿易と国内沿岸の漁業活動を禁じるという海禁政策を実施し、さらに海防体制も固められました。そしてそれが前述の華夷思想にもとづく朝貢制度と結びつき、対外交易を朝貢国のみに限定するという体制が確立することになるのです。
ただし、その制度は当初からかなり無理がありました。それまで対外交易や漁業などで生活していた多くの中国沿岸住民は困窮してしまい、密貿易に走らざるをえなくなります(実際、沿岸住民の密貿易活動は完全に無くならなかったようです)。そこで明朝は排除された「非合法」の海商・密貿易勢力を、琉球のもとで「合法」的に活動させることによって朝貢・海禁システムを円滑に運営しようとしたのです。
つまり琉球を朝貢・海禁体制下で非合法とされた民間勢力の「受け皿」にするために、新興国琉球を徹底的に優遇して東アジア海域世界の有力な交易勢力に育てる必要があったわけです。久米村で活動する華人たちは本来なら非合法の密貿易商、場合によっては海賊行為も行いうる海商になるところを、琉球の朝貢貿易の内に取り込むことによって合法的で秩序立った貿易活動をさせることが可能になったのです。
明朝は倭寇の根拠地であった日本へも使節を派遣して倭寇の取締りを要請しています。当時、「日本国王」として冊封された南朝の懐良親王は九州一帯を掌握していたものの、室町幕府の攻勢によって急速に力を失いつつありました。「日本国王」の実体のない懐良親王に倭寇取締りを期待できず、かと言っていったん明皇帝が認定した日本の正統な支配者の地位を取り消すわけにもいかず、倭寇対策は閉塞状態におちいります。そこで別の倭寇対策として新興国の琉球が改めて注目されたというわけです。
また琉球は日本と明の交渉を仲介する役目も担いました。例えば足利義満の死後に子の義持は明と断交しますが、明は1433年(宣徳7)に柴山(さいざん)を琉球に派遣して、琉球を仲介した形で日本への朝貢再開を求めます。実はこの時、尚巴志が日明国交再開を妨害してある事件が起こりますが、それはまた後述することにします。
たしかに三山時代には、明からの使節が琉球で馬と硫黄を大量に買い付けていて、対モンゴル用の軍需物資の調達先として琉球があったことは間違いありません。しかしそれは一時的なものであり、それだけで全てを説明できるわけではありません。実は明朝の琉球優遇策には、当時の明をとりまく国内・対外情勢と政策とが密接に関係していました。
建国当初の明の対外政策は元代と同様、市舶司(しはくし。今でいう税関)の管理下での民間交易を認めていましたが、反明勢力の張士誠・方国珍や倭寇が沿岸を荒らして治安が悪化したため、対策として民間の海外貿易と国内沿岸の漁業活動を禁じるという海禁政策を実施し、さらに海防体制も固められました。そしてそれが前述の華夷思想にもとづく朝貢制度と結びつき、対外交易を朝貢国のみに限定するという体制が確立することになるのです。
ただし、その制度は当初からかなり無理がありました。それまで対外交易や漁業などで生活していた多くの中国沿岸住民は困窮してしまい、密貿易に走らざるをえなくなります(実際、沿岸住民の密貿易活動は完全に無くならなかったようです)。そこで明朝は排除された「非合法」の海商・密貿易勢力を、琉球のもとで「合法」的に活動させることによって朝貢・海禁システムを円滑に運営しようとしたのです。
つまり琉球を朝貢・海禁体制下で非合法とされた民間勢力の「受け皿」にするために、新興国琉球を徹底的に優遇して東アジア海域世界の有力な交易勢力に育てる必要があったわけです。久米村で活動する華人たちは本来なら非合法の密貿易商、場合によっては海賊行為も行いうる海商になるところを、琉球の朝貢貿易の内に取り込むことによって合法的で秩序立った貿易活動をさせることが可能になったのです。
明朝は倭寇の根拠地であった日本へも使節を派遣して倭寇の取締りを要請しています。当時、「日本国王」として冊封された南朝の懐良親王は九州一帯を掌握していたものの、室町幕府の攻勢によって急速に力を失いつつありました。「日本国王」の実体のない懐良親王に倭寇取締りを期待できず、かと言っていったん明皇帝が認定した日本の正統な支配者の地位を取り消すわけにもいかず、倭寇対策は閉塞状態におちいります。そこで別の倭寇対策として新興国の琉球が改めて注目されたというわけです。
また琉球は日本と明の交渉を仲介する役目も担いました。例えば足利義満の死後に子の義持は明と断交しますが、明は1433年(宣徳7)に柴山(さいざん)を琉球に派遣して、琉球を仲介した形で日本への朝貢再開を求めます。実はこの時、尚巴志が日明国交再開を妨害してある事件が起こりますが、それはまた後述することにします。
2005年08月19日
朝貢の開始と国際都市那覇の形成(2)
1368年(洪武元)、朱元璋(洪武帝)はモンゴルの元朝を滅ぼし、南京に明朝を樹立します。漢民族の王朝を回復した洪武帝は伝統的な華夷思想にもとづき周辺諸国に対して入貢を呼びかけ、明を中心とした冊封(さくほう)体制の構築をはかります。
冊封体制とは中国を世界の中心である中華、周辺を野蛮な夷狄(いてき)として皇帝と周辺諸国が朝貢関係を結び、皇帝は周辺諸国の長に爵位を与えて臣下の礼をとらせる体制です。明建国後、ただちに日本や高麗、東南アジア諸国などへ朝貢を求める使者が派遣されました。遅れて1372年(洪武5)、明の使者楊載は琉球を訪れ、浦添グスクの「世の主」察度に入貢を求めます。察度はその要請に応じて弟の泰期(たいき)を派遣し、察度は「琉球国中山王」に封ぜられました。ここに明との正式な外交関係が結ばれることになります。1380年には南山王承察度(うふさと)が、1383年には北山王帕尼芝(はねじ)が続き、三山がそれぞれ明と朝貢関係を結ぶことになりました。
琉球は他の朝貢国と比べ、明朝から徹底して優遇されていました。第一は朝貢する頻度です。朝貢は通常3年に1度とされ、各国が頻繁に朝貢することを制限していました。ところが琉球の三山に対しては「朝貢不時」、つまり無制限に朝貢を許されていたのです。
第二は朝貢主体です。三山は一つの国と認められていたのではなく、「琉球国中山王」などと称していたように、あくまで「琉球国」のうちの一勢力にすぎませんでした。一国に三つもの朝貢主体を認めていたのは異例中の異例です。例えば日本では当初、南朝方の懐良親王を「日本国王」と認めたため、足利義満の入貢を認めませんでした。朝貢主体は一国に一つとしていたのです。さらには通常の朝貢は「国王」に限定されていたにもかかわらず、琉球では「王」のほか「世子(王子)」や「王叔」など王の一族でも朝貢使節を派遣することができました。
第三に明での入国場所。朝貢使節の入国地は、例えば日本の場合、寧波以外は入国を認めないというように厳格に定められていました。琉球の入港地は基本的に福建の泉州でしたが、それ以外の場所から自由に入国することも許されていました。浙江の瑞安県に琉球船が入港した時には明朝はそれを許可しただけでなく、わざわざ琉球人の滞在施設まで建設する始末です。通常、入港地では朝貢使節に対し、正式な使者かを判断するため明の発給した勘合の照合が行われましたが、これも琉球は免除されていました。
第四には琉球への大型海船の無償提供です。当初の朝貢使節は明の船に便乗するかたちでしたが、明へ朝貢するためのジャンク船を30隻も無償で琉球に提供しました。前述のようにこのジャンク船は明の千戸所の軍船を払い下げた110名乗りの大型船で、各船には「洪字号船」「勝字号船」などと字号が付けられていました。さらには船そのものだけではなく、それを動かす明人のスタッフまで提供したのです。それが火長(船長)の潘仲孫(はん・ちゅうそん)のような航海技術者でした。
このような至れり尽くせりの優遇策によって、琉球は東アジア世界の架け橋として中継貿易を行うことが可能になったのです。
冊封体制とは中国を世界の中心である中華、周辺を野蛮な夷狄(いてき)として皇帝と周辺諸国が朝貢関係を結び、皇帝は周辺諸国の長に爵位を与えて臣下の礼をとらせる体制です。明建国後、ただちに日本や高麗、東南アジア諸国などへ朝貢を求める使者が派遣されました。遅れて1372年(洪武5)、明の使者楊載は琉球を訪れ、浦添グスクの「世の主」察度に入貢を求めます。察度はその要請に応じて弟の泰期(たいき)を派遣し、察度は「琉球国中山王」に封ぜられました。ここに明との正式な外交関係が結ばれることになります。1380年には南山王承察度(うふさと)が、1383年には北山王帕尼芝(はねじ)が続き、三山がそれぞれ明と朝貢関係を結ぶことになりました。
琉球は他の朝貢国と比べ、明朝から徹底して優遇されていました。第一は朝貢する頻度です。朝貢は通常3年に1度とされ、各国が頻繁に朝貢することを制限していました。ところが琉球の三山に対しては「朝貢不時」、つまり無制限に朝貢を許されていたのです。
第二は朝貢主体です。三山は一つの国と認められていたのではなく、「琉球国中山王」などと称していたように、あくまで「琉球国」のうちの一勢力にすぎませんでした。一国に三つもの朝貢主体を認めていたのは異例中の異例です。例えば日本では当初、南朝方の懐良親王を「日本国王」と認めたため、足利義満の入貢を認めませんでした。朝貢主体は一国に一つとしていたのです。さらには通常の朝貢は「国王」に限定されていたにもかかわらず、琉球では「王」のほか「世子(王子)」や「王叔」など王の一族でも朝貢使節を派遣することができました。
第三に明での入国場所。朝貢使節の入国地は、例えば日本の場合、寧波以外は入国を認めないというように厳格に定められていました。琉球の入港地は基本的に福建の泉州でしたが、それ以外の場所から自由に入国することも許されていました。浙江の瑞安県に琉球船が入港した時には明朝はそれを許可しただけでなく、わざわざ琉球人の滞在施設まで建設する始末です。通常、入港地では朝貢使節に対し、正式な使者かを判断するため明の発給した勘合の照合が行われましたが、これも琉球は免除されていました。
第四には琉球への大型海船の無償提供です。当初の朝貢使節は明の船に便乗するかたちでしたが、明へ朝貢するためのジャンク船を30隻も無償で琉球に提供しました。前述のようにこのジャンク船は明の千戸所の軍船を払い下げた110名乗りの大型船で、各船には「洪字号船」「勝字号船」などと字号が付けられていました。さらには船そのものだけではなく、それを動かす明人のスタッフまで提供したのです。それが火長(船長)の潘仲孫(はん・ちゅうそん)のような航海技術者でした。
このような至れり尽くせりの優遇策によって、琉球は東アジア世界の架け橋として中継貿易を行うことが可能になったのです。
2005年08月16日
朝貢の開始と国際都市那覇の形成(1)
1372年、中山王察度は明の要請に答え朝貢を開始します。ここにいたって琉球の歴史は新たな段階に入りますが、琉球の朝貢開始にはどのような背景があったのかみてみましょう。
発端は中国を支配していた元朝の動揺による東アジア情勢の変動と、それにともなう航海路の変更にありました。それまでの日中間の往来は、中世日本最大の国際貿易港の博多から中国の明州(寧波)に直行する「大洋路」が使用されていました。ところが14世紀、元末の内乱と倭寇の活発化によって海上の治安は極度に悪化、メインルートだった「大洋路」の通航は困難となります。元末内乱による海寇に加え、日本では南北朝の争乱が起こり、この動きが「倭寇」として朝鮮半島・中国沿岸にまで波及したものとみられます。そして「大洋路」にかわって使われた航路が、肥前(熊本)の高瀬津から琉球諸島を島伝いに経由して中国福建に到る「南島路」です。この時期には鹿児島の加世田に小規模ながら「唐坊」と呼ばれるチャイナタウンが形成されていたようで、また奄美大島の倉木崎遺跡では大量の中国陶磁器が発見されています。いずれも「南島路」を往来する中国船の残した痕跡と考えられています。
14世紀のメインルート変更によって琉球諸島に中国商船から陶磁器をはじめとした様々な物資がもたらされることとになり、この動きにあわせて福建出身者を主とした中国商人たちが琉球にも拠点を築きはじめます。それが後の「久米村(唐栄ともいう)」となるチャイナタウンです。彼らは琉球各地にも居留地を築いた可能性がありますが、港の立地条件などから那覇がその中心であった可能性が高いといえます。那覇の臨海寺には元朝の年号である至正2年(1342)の銘を持つ石仏が戦前まで残っていましたし、思紹に仕えた華人の程復も1372年の朝貢以前から琉球に居住していました。つまり久米村は、明への朝貢以前に「南島路」を往来する華人たちによって自然発生的につくられたと考えられます。
この時期、中国沿岸の住民は琉球や日本のみならず東南アジア方面へも進出し、各地に華僑社会をつくりあげていました。琉球に形成された久米村は琉球特有の現象だったのではなく、国境を超えた華人たちの東アジア海域圏の活動の一環として存在していたわけです。彼らは交易活動によって相互に華人ネットワークを結んでいました。これらのつながりが、後の琉球国王相(おうしょう)、懐機による外交の場面で発揮されることになります。
ここで那覇の説明をしておきましょう。那覇はもと「浮島」と呼ばれた島で、島に接する国場川河口は内海のようになり港として絶好の場所でした。浮島の中央部には久米村があり、「土城」と呼ばれた土塁で周囲をおおわれていました。域内には瓦ぶきの壮麗な中国風邸宅が並び、道教の神を祭る天尊廟や航海神の天妃(てんぴ)宮などもつくられていました。周囲は琉球の地元民や日本、東南アジア商人たちの住む港町となっていました。那覇の浮島は、グスク時代以来の集落(シマ)を基本とする他の地域とは異質の、全くの別世界を築いていたのです。いわば「国際貿易特区」といったところでしょうか。三山時代の久米村は他の勢力の直接支配を受けることのない、華人だけの自治区であったとみられます。後には明皇帝の意を受けて派遣された華人集団(いわゆる閩(びん)人三十六姓)も加わり、久米村は三山の王たちでさえ容易に手を出しがたい場所であったはずです。琉球各地の「沖縄的世界」の人々は、舶来の珍品や豪華な建物が並び立ち、異国情緒あふれる国際都市の那覇に羨望のまなざしを向けていたことでしょう。
三山時代以前の琉球諸島は、「流求」という台湾も含めた漠然とした地域として中国側に認識されていました。それが「南島路」の出現によって、往来する商人たちから中国側に琉球諸島の正確な情報がもたらされ、その情報をもとにして、1372年の中山王察度への入貢要請が行われることになったとみられます。こうして琉球が東アジアの国際舞台にデビューする準備が着々と進んでいくのです。
発端は中国を支配していた元朝の動揺による東アジア情勢の変動と、それにともなう航海路の変更にありました。それまでの日中間の往来は、中世日本最大の国際貿易港の博多から中国の明州(寧波)に直行する「大洋路」が使用されていました。ところが14世紀、元末の内乱と倭寇の活発化によって海上の治安は極度に悪化、メインルートだった「大洋路」の通航は困難となります。元末内乱による海寇に加え、日本では南北朝の争乱が起こり、この動きが「倭寇」として朝鮮半島・中国沿岸にまで波及したものとみられます。そして「大洋路」にかわって使われた航路が、肥前(熊本)の高瀬津から琉球諸島を島伝いに経由して中国福建に到る「南島路」です。この時期には鹿児島の加世田に小規模ながら「唐坊」と呼ばれるチャイナタウンが形成されていたようで、また奄美大島の倉木崎遺跡では大量の中国陶磁器が発見されています。いずれも「南島路」を往来する中国船の残した痕跡と考えられています。
14世紀のメインルート変更によって琉球諸島に中国商船から陶磁器をはじめとした様々な物資がもたらされることとになり、この動きにあわせて福建出身者を主とした中国商人たちが琉球にも拠点を築きはじめます。それが後の「久米村(唐栄ともいう)」となるチャイナタウンです。彼らは琉球各地にも居留地を築いた可能性がありますが、港の立地条件などから那覇がその中心であった可能性が高いといえます。那覇の臨海寺には元朝の年号である至正2年(1342)の銘を持つ石仏が戦前まで残っていましたし、思紹に仕えた華人の程復も1372年の朝貢以前から琉球に居住していました。つまり久米村は、明への朝貢以前に「南島路」を往来する華人たちによって自然発生的につくられたと考えられます。
この時期、中国沿岸の住民は琉球や日本のみならず東南アジア方面へも進出し、各地に華僑社会をつくりあげていました。琉球に形成された久米村は琉球特有の現象だったのではなく、国境を超えた華人たちの東アジア海域圏の活動の一環として存在していたわけです。彼らは交易活動によって相互に華人ネットワークを結んでいました。これらのつながりが、後の琉球国王相(おうしょう)、懐機による外交の場面で発揮されることになります。
ここで那覇の説明をしておきましょう。那覇はもと「浮島」と呼ばれた島で、島に接する国場川河口は内海のようになり港として絶好の場所でした。浮島の中央部には久米村があり、「土城」と呼ばれた土塁で周囲をおおわれていました。域内には瓦ぶきの壮麗な中国風邸宅が並び、道教の神を祭る天尊廟や航海神の天妃(てんぴ)宮などもつくられていました。周囲は琉球の地元民や日本、東南アジア商人たちの住む港町となっていました。那覇の浮島は、グスク時代以来の集落(シマ)を基本とする他の地域とは異質の、全くの別世界を築いていたのです。いわば「国際貿易特区」といったところでしょうか。三山時代の久米村は他の勢力の直接支配を受けることのない、華人だけの自治区であったとみられます。後には明皇帝の意を受けて派遣された華人集団(いわゆる閩(びん)人三十六姓)も加わり、久米村は三山の王たちでさえ容易に手を出しがたい場所であったはずです。琉球各地の「沖縄的世界」の人々は、舶来の珍品や豪華な建物が並び立ち、異国情緒あふれる国際都市の那覇に羨望のまなざしを向けていたことでしょう。
三山時代以前の琉球諸島は、「流求」という台湾も含めた漠然とした地域として中国側に認識されていました。それが「南島路」の出現によって、往来する商人たちから中国側に琉球諸島の正確な情報がもたらされ、その情報をもとにして、1372年の中山王察度への入貢要請が行われることになったとみられます。こうして琉球が東アジアの国際舞台にデビューする準備が着々と進んでいくのです。
2005年08月14日
古琉球の戦争(3)
古琉球(尚真王以前)の軍団編成はおそらく按司の「軍(いくさ)」を単位とした編成で、三山の王の軍団も自分たちの支配領域から動員した按司の軍と基本的に変わらなかったでしょう。出陣の際には王が各地の按司に軍勢の派遣を命じ、按司連合軍として戦いに挑んだとみられます。
また琉球には騎馬軍団が存在した可能性があります。今からでは考えられないことですが、かつての琉球には小型の馬が大量に生息していました。その馬が硫黄とともに明への主要な朝貢品となっていて、ピーク時(三山時代)には一年に900頭もの馬が明へ送られ軍馬として使用されました。そして馬調達のための王府公営の広大な馬牧場が読谷村牧原にあったことが知られています(この地名は牧場に由来するとみられます)。現在でも牧場を囲む人口の土手が残っています。琉球国内でも進貢用の馬は軍用として使われたとみていいでしょう。
神女(ノロ)もまた古琉球での戦争に重要な役割を果たしました。『おもろさうし』から戦争と神女に関わるものをいくつか紹介しましょう。
聞得大君ぎや (聞得大君が)
初め軍 立ちよわちへ (いくさの先頭に立ちたまいて)
合おて 行き遣り (戦い行きて)
敵 治めわちへ (敵を平らげたまいて)
鳴響(とよ)む精高子が (名高き霊力豊かな人=聞得大君が)
このオモロからは、琉球王府最高の神女である聞得大君が軍勢の先頭に立って兵士たちを鼓舞する様子をみることができます。沖縄に残る「女は戦の先駆け(いなぐや、いくさぬ、さちばい)」といった言葉のように、古琉球の戦争では姉妹が男の兄弟を霊的に守護するというオナリ神信仰にもとづき、神女が先頭に立って霊力(せぢ)で兵士たちを守護する、また敵を滅ぼすといった行為が行われていたようです。たとえば1500年、琉球王府の八重山征服戦争では、まず神女たちが敵を調伏する呪いの言葉を投げて戦闘が始まっています。またこの時に王府軍に従軍した久米島の神女、君南風(ちんぺー)は八重山軍に対して謀略を行うよう進言、みごとに成功し、その功績で王府の高級神女(三十三君)になったといいます。古琉球の戦闘において神女たちの霊力(せぢ)は実際の戦闘力として考えられていて、その影響力は無視できないものでした。
聞得大君ぎや (聞得大君が)
赤の鎧 召しよわちへ (赤の鎧を身に着けたまいて)
刀うちす (刀をつけ)
大国 鳴響みよわれ (国中に鳴りとどろかせたまえ)
鳴響む精高子が (聞得大君が)
このオモロからは、聞得大君が刀と赤の鎧で武装している様子をうかがうことができます。ところで首里城の発掘調査では日本刀ではない諸刃の剣が出土しています。剣の先には赤の漆が塗られていて、祭祀用に使われたと推定されています。鎧の「赤」には何らかの呪術的な意味があったのでしょうか。武器は単に敵を殺傷する道具としてではなく、平安時代の「弦(つる)打ち」という、弓の弦を鳴らして物の怪を払うといった行為にみられるように、「魔」を払う霊力を持つ道具とされていました。『おもろさうし』にはこのほか、「塗手鉾(ほこ)」や「金真弓」といった武器を持ち祭祀を行う様子をえがいたオモロがあります。武器が神女たちの儀式でも身近なものであったことがわかります。戦闘においても神女たちは鎧に身を固め、霊力を持つ刀で武装していたかもしれません。
また琉球には騎馬軍団が存在した可能性があります。今からでは考えられないことですが、かつての琉球には小型の馬が大量に生息していました。その馬が硫黄とともに明への主要な朝貢品となっていて、ピーク時(三山時代)には一年に900頭もの馬が明へ送られ軍馬として使用されました。そして馬調達のための王府公営の広大な馬牧場が読谷村牧原にあったことが知られています(この地名は牧場に由来するとみられます)。現在でも牧場を囲む人口の土手が残っています。琉球国内でも進貢用の馬は軍用として使われたとみていいでしょう。
神女(ノロ)もまた古琉球での戦争に重要な役割を果たしました。『おもろさうし』から戦争と神女に関わるものをいくつか紹介しましょう。
聞得大君ぎや (聞得大君が)
初め軍 立ちよわちへ (いくさの先頭に立ちたまいて)
合おて 行き遣り (戦い行きて)
敵 治めわちへ (敵を平らげたまいて)
鳴響(とよ)む精高子が (名高き霊力豊かな人=聞得大君が)
このオモロからは、琉球王府最高の神女である聞得大君が軍勢の先頭に立って兵士たちを鼓舞する様子をみることができます。沖縄に残る「女は戦の先駆け(いなぐや、いくさぬ、さちばい)」といった言葉のように、古琉球の戦争では姉妹が男の兄弟を霊的に守護するというオナリ神信仰にもとづき、神女が先頭に立って霊力(せぢ)で兵士たちを守護する、また敵を滅ぼすといった行為が行われていたようです。たとえば1500年、琉球王府の八重山征服戦争では、まず神女たちが敵を調伏する呪いの言葉を投げて戦闘が始まっています。またこの時に王府軍に従軍した久米島の神女、君南風(ちんぺー)は八重山軍に対して謀略を行うよう進言、みごとに成功し、その功績で王府の高級神女(三十三君)になったといいます。古琉球の戦闘において神女たちの霊力(せぢ)は実際の戦闘力として考えられていて、その影響力は無視できないものでした。
聞得大君ぎや (聞得大君が)
赤の鎧 召しよわちへ (赤の鎧を身に着けたまいて)
刀うちす (刀をつけ)
大国 鳴響みよわれ (国中に鳴りとどろかせたまえ)
鳴響む精高子が (聞得大君が)
このオモロからは、聞得大君が刀と赤の鎧で武装している様子をうかがうことができます。ところで首里城の発掘調査では日本刀ではない諸刃の剣が出土しています。剣の先には赤の漆が塗られていて、祭祀用に使われたと推定されています。鎧の「赤」には何らかの呪術的な意味があったのでしょうか。武器は単に敵を殺傷する道具としてではなく、平安時代の「弦(つる)打ち」という、弓の弦を鳴らして物の怪を払うといった行為にみられるように、「魔」を払う霊力を持つ道具とされていました。『おもろさうし』にはこのほか、「塗手鉾(ほこ)」や「金真弓」といった武器を持ち祭祀を行う様子をえがいたオモロがあります。武器が神女たちの儀式でも身近なものであったことがわかります。戦闘においても神女たちは鎧に身を固め、霊力を持つ刀で武装していたかもしれません。
2005年08月12日
古琉球の戦争(2)
古琉球の武器で注目されるのが「火矢(ひや)」と呼ばれた銃砲です。琉球には日本の鉄砲伝来の100年前にすでに銃砲が入ってきていました。この火器は映画「もののけ姫」に登場した、石火矢(いしびや)と呼ばれた中国式銃砲と同じ形式のものでした。
火薬は唐代の中国で発明され、宋代になって兵器として転用されました。琉球へは中国経由で伝来したと考えられるのですが、当時の中国は武器・火薬類の国外輸出を厳禁していたので、おそらく倭寇(わこう)などの密貿易集団から入手したものとみられます。モンゴルの元朝を倒した明の朱元璋(しゅげんしょう)は、多くの銃砲を使用して各地での戦闘に勝利し、火砲が明王朝樹立の大きな原動力になったといいます。おそらく戦後使われなくなったこれらの銃砲の一部が琉球に流入したのではないでしょうか。明初には張士誠・方国珍という反明勢力が中国沿岸地域を荒らしていました。彼らの活動が明の海禁政策を生み出す要因になるのですが、このような海寇勢力が琉球へ兵器類を横流ししていた可能性があります。
この頃の火器は金属製の筒に弾丸ではなく何本もの矢を入れ、火薬で発射するものが主であったようです。琉球で火砲が「火矢」と呼ばれるのは、これに由来するのではないかと考えられます。大砲などの大型火器は重く機動性がないことから陸上戦闘よりむしろ海上戦闘で使用されたと考えられます。明から琉球に支給された進貢船(ジャンク船)は、実は千戸所(せんこしょ)と言われる明の地方軍事組織の所有している軍船を払い下げたものでした。もと軍事用の進貢船には大型火器を容易に設置できたのではないでしょうか。16世紀に入るとポルトガルの新型大砲、仏朗機(ふらんき)砲が導入されたと考えられます。
楯(たて)などの防御具もあったようです。詳細は不明ですが、『おもろさうし』には「牛綾楯」という楯が登場しますが、これは牛革で作られた楯だとみられます。そのほか木製の楯や中国の藤牌が存在した可能性があります。
以上あげたような武器は、そのほとんどが輸入品であると考えられてきました。しかし、これも最近行われた出土品の分析の結果、琉球で製作されたものが多く存在することがわかりました。つまり対外世界から輸入した武器類をモデルにして、琉球でそのコピー品を生産していたわけです。
では、なぜ琉球では日本式の武器が多く採用されたのでしょうか。それは兵器としての性能が優れていたからという理由が第一にあるでしょう。例えば鋭利な日本刀はその後の豊臣秀吉の朝鮮侵略戦争(文禄・慶長の役)で、明・朝鮮軍に対して火縄銃とともに圧倒的な威力を見せつけ、以後の明・朝鮮の軍装に大きな影響を与えました。このような日本刀を琉球ではいち早く採用したのです。一方、火器兵器に関しては中国の火砲を導入しています。これも遠距離攻撃の性能を買ってのことでしょう。琉球で製作された日本式の胴丸鎧に日本刀、そして中国式火砲を持つ「厳子(いつこ=兵士)」たち。武器に関しても琉球は「チャンプルー」であり、対外世界との交流の深さを垣間見させてくれます。
火薬は唐代の中国で発明され、宋代になって兵器として転用されました。琉球へは中国経由で伝来したと考えられるのですが、当時の中国は武器・火薬類の国外輸出を厳禁していたので、おそらく倭寇(わこう)などの密貿易集団から入手したものとみられます。モンゴルの元朝を倒した明の朱元璋(しゅげんしょう)は、多くの銃砲を使用して各地での戦闘に勝利し、火砲が明王朝樹立の大きな原動力になったといいます。おそらく戦後使われなくなったこれらの銃砲の一部が琉球に流入したのではないでしょうか。明初には張士誠・方国珍という反明勢力が中国沿岸地域を荒らしていました。彼らの活動が明の海禁政策を生み出す要因になるのですが、このような海寇勢力が琉球へ兵器類を横流ししていた可能性があります。
この頃の火器は金属製の筒に弾丸ではなく何本もの矢を入れ、火薬で発射するものが主であったようです。琉球で火砲が「火矢」と呼ばれるのは、これに由来するのではないかと考えられます。大砲などの大型火器は重く機動性がないことから陸上戦闘よりむしろ海上戦闘で使用されたと考えられます。明から琉球に支給された進貢船(ジャンク船)は、実は千戸所(せんこしょ)と言われる明の地方軍事組織の所有している軍船を払い下げたものでした。もと軍事用の進貢船には大型火器を容易に設置できたのではないでしょうか。16世紀に入るとポルトガルの新型大砲、仏朗機(ふらんき)砲が導入されたと考えられます。
楯(たて)などの防御具もあったようです。詳細は不明ですが、『おもろさうし』には「牛綾楯」という楯が登場しますが、これは牛革で作られた楯だとみられます。そのほか木製の楯や中国の藤牌が存在した可能性があります。
以上あげたような武器は、そのほとんどが輸入品であると考えられてきました。しかし、これも最近行われた出土品の分析の結果、琉球で製作されたものが多く存在することがわかりました。つまり対外世界から輸入した武器類をモデルにして、琉球でそのコピー品を生産していたわけです。
では、なぜ琉球では日本式の武器が多く採用されたのでしょうか。それは兵器としての性能が優れていたからという理由が第一にあるでしょう。例えば鋭利な日本刀はその後の豊臣秀吉の朝鮮侵略戦争(文禄・慶長の役)で、明・朝鮮軍に対して火縄銃とともに圧倒的な威力を見せつけ、以後の明・朝鮮の軍装に大きな影響を与えました。このような日本刀を琉球ではいち早く採用したのです。一方、火器兵器に関しては中国の火砲を導入しています。これも遠距離攻撃の性能を買ってのことでしょう。琉球で製作された日本式の胴丸鎧に日本刀、そして中国式火砲を持つ「厳子(いつこ=兵士)」たち。武器に関しても琉球は「チャンプルー」であり、対外世界との交流の深さを垣間見させてくれます。
2005年08月11日
古琉球の戦争(1)
「グスクの海」の舞台となる三山~第一尚氏時代は、これまで述べたとおり血で血を洗う戦乱の時代でした。この時期の琉球の戦争や兵士の軍装はどのようなものだったのでしょうか。その実態はこれまで謎とされてきましたが、グスクの出土遺物や史料の分析から、現在ではかなりの部分まで明らかになってきています。
古琉球の武装は基本的に日本式のものを使用していました。鎧(よろい)については、大部分が室町時代の日本で使用されていた胴丸(どうまる)・腹巻(はらまき)でした。とくに南九州の鎧の形式と酷似したものが多いといいます。鎌倉時代に使用されたような大鎧もわずかですが入ってきていたようです。この時期の日本では、騎馬戦用の大鎧から歩兵戦用の胴丸・腹巻へと変わりつつありました。琉球の鎧もこの流れを受けたものであったとみられます。ただ、琉球では戦国時代に入っても新型の当世具足(とうせいぐそく)を使用しませんでした。江戸時代の島津氏による征服直前まで旧式の防具を採用し続けていたのです。また中国式の鎧は現段階では確認されていません。おそらく移入されてもごく少数で、一般的ではなかったようです。兜(かぶと)ももちろん日本の室町時代に使用されていた形式で、筋兜・阿古陀形(あこだなり)兜などでした。顔面を防御する金属製の頬(ほお)当てなどの面具も着けていたようです。
刀剣も日本刀を使っていました。15世紀の中頃(尚金福王の時代)の記録では、琉球人は大小の刀を肌身離さず身につけていたとあります。琉球では第一尚氏頃まで日本の武士のような風習があったのです。しかし琉球の刀剣は日本刀と全く同じであったわけではないようです。尚家伝来の宝刀、千代金丸は刀身が日本刀なのですが、外装はちがう形式です。刀の柄(つか)の部分は通常の日本刀が両手持ちなのに対して、千代金丸は中国式刀剣と同じような片手持ちの形式に変えられています。つまり日本刀をベースにして琉球独自の形式にしてあるのです。
長柄の武器は、長刀(なぎなた)と矛(ほこ)を使用していました。矛は中国式のもので、日本の槍(やり)とは構造がちがいます。また弓矢に関しては日本式の弓矢で、中国・朝鮮にある牛皮の合成弓はなかったようです。16世紀の冊封使の記録には琉球の弓は長大なものだったとありますが、これは世界最大級である日本式の弓であることを示しています。弓は滋藤(しげとう)、塗籠藤(ぬりごめとう)などの形式があったようです。矢は通常の形式のほかに、矢じりの先端をとがらせないで斧のように平らにする独特の矢が使われていました。材質も鉄製だけでなく、ジュゴンの骨を削って作ったものも多く出てきます。これは戦闘用のみならず、呪術的な祭祀具としても使われたのでしょうか。
古琉球の武装は基本的に日本式のものを使用していました。鎧(よろい)については、大部分が室町時代の日本で使用されていた胴丸(どうまる)・腹巻(はらまき)でした。とくに南九州の鎧の形式と酷似したものが多いといいます。鎌倉時代に使用されたような大鎧もわずかですが入ってきていたようです。この時期の日本では、騎馬戦用の大鎧から歩兵戦用の胴丸・腹巻へと変わりつつありました。琉球の鎧もこの流れを受けたものであったとみられます。ただ、琉球では戦国時代に入っても新型の当世具足(とうせいぐそく)を使用しませんでした。江戸時代の島津氏による征服直前まで旧式の防具を採用し続けていたのです。また中国式の鎧は現段階では確認されていません。おそらく移入されてもごく少数で、一般的ではなかったようです。兜(かぶと)ももちろん日本の室町時代に使用されていた形式で、筋兜・阿古陀形(あこだなり)兜などでした。顔面を防御する金属製の頬(ほお)当てなどの面具も着けていたようです。
刀剣も日本刀を使っていました。15世紀の中頃(尚金福王の時代)の記録では、琉球人は大小の刀を肌身離さず身につけていたとあります。琉球では第一尚氏頃まで日本の武士のような風習があったのです。しかし琉球の刀剣は日本刀と全く同じであったわけではないようです。尚家伝来の宝刀、千代金丸は刀身が日本刀なのですが、外装はちがう形式です。刀の柄(つか)の部分は通常の日本刀が両手持ちなのに対して、千代金丸は中国式刀剣と同じような片手持ちの形式に変えられています。つまり日本刀をベースにして琉球独自の形式にしてあるのです。
長柄の武器は、長刀(なぎなた)と矛(ほこ)を使用していました。矛は中国式のもので、日本の槍(やり)とは構造がちがいます。また弓矢に関しては日本式の弓矢で、中国・朝鮮にある牛皮の合成弓はなかったようです。16世紀の冊封使の記録には琉球の弓は長大なものだったとありますが、これは世界最大級である日本式の弓であることを示しています。弓は滋藤(しげとう)、塗籠藤(ぬりごめとう)などの形式があったようです。矢は通常の形式のほかに、矢じりの先端をとがらせないで斧のように平らにする独特の矢が使われていました。材質も鉄製だけでなく、ジュゴンの骨を削って作ったものも多く出てきます。これは戦闘用のみならず、呪術的な祭祀具としても使われたのでしょうか。
2005年08月09日
初期中山政権の実像
琉球における初期の王統として知られるのは、浦添を本拠とした舜天・英祖・察度王統です。このなかで同時代記録から確認できる琉球の王は察度からで、それ以前の舜天・英祖王統に関しては伝承の域を出ないということで、存在を疑問視する説もあります。
舜天は尊敦(そんとん)ともいい、琉球最初の王と伝えられる王です。実在の証拠を示すものはありませんが、すでに尚真王の時代には舜天が最初の王として観念されていました。面白いことに、第二尚氏の王たちは自分を「そんとん(尊敦)より何代の王」と数えていて、とくに王統の区別はしていませんでした。血筋は変わっても、王は琉球世界を治める支配者(=世の主)として代々続いている、という観念があったようです。いずれにせよ、舜天はたとえ実在しても浦添一帯を治める按司にすぎなかったと考えられます。ただ後に王国を統一した中山の系譜につながっていたため、琉球最初の王と後世に位置づけられたのでしょう。
次の英祖についても実在を疑われていましたが、最近の浦添ようどれ復元にともない石棺内に納められた王族の人骨を調査した結果、最古の人骨の年代は英祖王統の時代にまでさかのぼることが判明しました。英祖王統が実在した有力な証拠です。さらに人骨は中世日本人の特徴を持ち、DNA分析では南中国・東南アジアのタイプを持つ人骨もあることもわかりました。交易によって様々な人々が移動し、融合していた当時の沖縄の状況をうかがい知ることができます。
初期ようどれの構造は、崖下の洞窟内部にさらに高麗瓦葺(ぶ)きの建物をつくり、その中に漆塗り木棺を置いたものであったようです。沖縄の葬制というと風葬が知られていますが、ようどれには風葬のほか火葬された人骨も発見され、初期の中山政権に仏教の影響があったことも新たにわかりました。伝承では英祖王代にヤマトより禅鑑(ぜんかん)という僧が来琉して仏教を伝えたとありますが、それを裏付けるものとして注目されます。ようどれの石棺には阿弥陀如来や地蔵菩薩が彫られていて、古琉球の人々の他界観にはニライカナイの伝統的な土着思想とは別の極楽浄土思想も持っていたとみられます。
舜天・英祖・察度政権の本拠地となった浦添グスクは、どのような場所だったのでしょうか。近年行われた調査の結果、察度王代の浦添グスクは中心に青灰色の高麗瓦葺き正殿が建ち、石積みの城郭の外側に土でつくられた物見状郭・水堀・木の柵をめぐらせ、さらに王陵の浦添ようどれ、イユグムイ(魚小堀)と呼ばれた龍潭のような人口池、極楽寺などの寺院を備えた総面積4万平方メートルを超える琉球最大の「超大型グスク」であることが明らかとなりました。この時期のグスクでこれほど大きなものはどこにも存在しません。尚巴志の築いた首里グスクですら面積は2万平方メートルにすぎません。浦添グスクはまるで戦国日本の小田原城のような難攻不落の巨大要塞だったのです。おそらく武寧王の浦添グスク攻略に向かった思紹・尚巴志の軍勢は、その巨大さに圧倒されたはずです。兵士たちは「こんなバカでかいグスクを落とせるのか…?」と呆然としたことでしょう。
浦添という地名の由来は「浦襲い」、つまり「浦々を支配する場所」であるとされています。『おもろさうし』には「名高き浦添に、東西から貢(かまへ)を持ち寄せて、名高き浦添に」とあり、支配領域から貢租(古琉球ではカナイと呼ぶ)が浦添にもたらされる様子を謡っています。察度政権時代の浦添は、まさに浦々を支配する「中山王」の居城にふさわしい場所だったのです。そのパワーは北山や南山と比較して突出していて、それが1372年に明の使節がまず中山に入貢を求めた要因だったと考えられます。当時の明は国交のなかった琉球で、最も勢力の大きい中山を最初の交渉相手に選んだのです。
舜天は尊敦(そんとん)ともいい、琉球最初の王と伝えられる王です。実在の証拠を示すものはありませんが、すでに尚真王の時代には舜天が最初の王として観念されていました。面白いことに、第二尚氏の王たちは自分を「そんとん(尊敦)より何代の王」と数えていて、とくに王統の区別はしていませんでした。血筋は変わっても、王は琉球世界を治める支配者(=世の主)として代々続いている、という観念があったようです。いずれにせよ、舜天はたとえ実在しても浦添一帯を治める按司にすぎなかったと考えられます。ただ後に王国を統一した中山の系譜につながっていたため、琉球最初の王と後世に位置づけられたのでしょう。
次の英祖についても実在を疑われていましたが、最近の浦添ようどれ復元にともない石棺内に納められた王族の人骨を調査した結果、最古の人骨の年代は英祖王統の時代にまでさかのぼることが判明しました。英祖王統が実在した有力な証拠です。さらに人骨は中世日本人の特徴を持ち、DNA分析では南中国・東南アジアのタイプを持つ人骨もあることもわかりました。交易によって様々な人々が移動し、融合していた当時の沖縄の状況をうかがい知ることができます。
初期ようどれの構造は、崖下の洞窟内部にさらに高麗瓦葺(ぶ)きの建物をつくり、その中に漆塗り木棺を置いたものであったようです。沖縄の葬制というと風葬が知られていますが、ようどれには風葬のほか火葬された人骨も発見され、初期の中山政権に仏教の影響があったことも新たにわかりました。伝承では英祖王代にヤマトより禅鑑(ぜんかん)という僧が来琉して仏教を伝えたとありますが、それを裏付けるものとして注目されます。ようどれの石棺には阿弥陀如来や地蔵菩薩が彫られていて、古琉球の人々の他界観にはニライカナイの伝統的な土着思想とは別の極楽浄土思想も持っていたとみられます。
舜天・英祖・察度政権の本拠地となった浦添グスクは、どのような場所だったのでしょうか。近年行われた調査の結果、察度王代の浦添グスクは中心に青灰色の高麗瓦葺き正殿が建ち、石積みの城郭の外側に土でつくられた物見状郭・水堀・木の柵をめぐらせ、さらに王陵の浦添ようどれ、イユグムイ(魚小堀)と呼ばれた龍潭のような人口池、極楽寺などの寺院を備えた総面積4万平方メートルを超える琉球最大の「超大型グスク」であることが明らかとなりました。この時期のグスクでこれほど大きなものはどこにも存在しません。尚巴志の築いた首里グスクですら面積は2万平方メートルにすぎません。浦添グスクはまるで戦国日本の小田原城のような難攻不落の巨大要塞だったのです。おそらく武寧王の浦添グスク攻略に向かった思紹・尚巴志の軍勢は、その巨大さに圧倒されたはずです。兵士たちは「こんなバカでかいグスクを落とせるのか…?」と呆然としたことでしょう。
浦添という地名の由来は「浦襲い」、つまり「浦々を支配する場所」であるとされています。『おもろさうし』には「名高き浦添に、東西から貢(かまへ)を持ち寄せて、名高き浦添に」とあり、支配領域から貢租(古琉球ではカナイと呼ぶ)が浦添にもたらされる様子を謡っています。察度政権時代の浦添は、まさに浦々を支配する「中山王」の居城にふさわしい場所だったのです。そのパワーは北山や南山と比較して突出していて、それが1372年に明の使節がまず中山に入貢を求めた要因だったと考えられます。当時の明は国交のなかった琉球で、最も勢力の大きい中山を最初の交渉相手に選んだのです。
2005年08月08日
三山の成立と「戦国時代」の突入
各地の按司は「てだ」とも呼ばれて太陽神に擬せられ、共同体の首長(リーダー)としての権力を誇示しました。自らの勢力拡大のため支配領域から人員を徴発して軍団を組織し、また対外世界との交易活動を行って富の蓄積をはかりました。
13世紀、中国元代の『重修崇明県志』には、琉球人が大倉州の商館を訪れて交易を行っていたと記録されています。中国への朝貢を開始する以前の話ですから、各地の按司が独自に派遣したものと考えられます。古琉球の歌謡集『おもろさうし』では按司の軍団を「おやいくさ(親軍)」、武将や兵士たちを「大ころ」「厳子(いつこ)」と呼んでいます。按司たちは自らの「いくさ(軍)」を組織して戦闘に挑んだのです。
「大ころ」たちは日本製の鎧(よろい)や刀、弓矢などで武装していました。グスクなどの発掘調査ではこれらの武器が多量に出土します。沖縄本島内で出土した鉄鏃(矢じり)の分析によると、13世紀後半から出土量が増え始め、14世紀後半に激増するといいます。三山の時代に入って矢を消費する量が圧倒的に増えたことは、各地での戦争が激化したことを示しているのです。グスク時代になって琉球列島に鉄が交易品として入ってきたことは前に述べましたが、輸入した鉄材はそのほとんどが武器の製造にまわされました。戦争の激化にあわせて城塞的グスクも大型化・複雑化し、14世紀後半から15世紀後半(三山~第一尚氏)の短期間に飛躍的な発展を遂げたこともわかっています。そのなかで浦添グスク、今帰仁グスクや勝連グスクなどの大型グスクも、この頃に城郭のかたちが整えられていきました。
このような按司の軍(いくさ)の抗争によって、按司たちを束ねる按司が現れます。その集団は沖縄本島南部、中部、北部をそれぞれ支配領域とする集団にまとまります。中国が「三山」と呼んだ三つの大勢力です。三勢力の各リーダーは強大な軍事力を背景に各地の按司を従えていましたが、その実態は按司の連合政権というべきもので、いまだ「王位」の世襲制は定着していませんでした。三山の「王」という捉え方はあくまで中国側の認識であって、実際は「王」という絶対的な権力者のイメージとはかけ離れたものであったようです。
古琉球の時代には沖縄本島を「おきなわ(沖縄)」、奄美地域を「奥渡(おくと)より上(かみ)」、先島地域を「みやこ・やへま(宮古・八重山)」と呼んでいました。沖縄本島では北部・南部のことをそれぞれ「上下(かみ・しも)」と呼んでいたようです。国頭(くにがみ)という呼び方は、「くにの上(かみ)」からきています。『おもろさうし』には「下(しも)の世の主」が登場しますが、これは南山王のことだと考えられています。北山王はおそらく「上(かみ)の世の主」と呼ばれていたことでしょう。
各グスクの正殿前には必ず御庭(うなー)と呼ばれる空間があります。連合政権に参加する各按司たちはここで合議を行ったと推測されています。三山の「世の主」の決定もこのような合議で決定されたのでしょう。例えば第一尚氏の尚徳王の死後、首里城正殿前の御庭で後継者を決定する会議が開かれ、その結果、家臣たちの推薦で金丸が王位に就くことになりましたが、これは必ずしも王位簒奪(さんだつ)という異常事態だったのではなく、古琉球における通常の後継者を決定するやり方だったのではないかというのです(時代は次第に王位世襲制に固まりつつあったようですが)。舜天王統から英祖王統、察度王統へという政権交代も、近世の観念では王の血筋によって「王統断絶」ととらえていますが、中山における通常の「世の主」決定システムでは血筋はとくに意識されず、舜天以来の継続した政権とみていたかもしれません。そして、その「世の主」を武力で奪取し、世襲制へと固定化していくのが尚巴志だったのです。
13世紀、中国元代の『重修崇明県志』には、琉球人が大倉州の商館を訪れて交易を行っていたと記録されています。中国への朝貢を開始する以前の話ですから、各地の按司が独自に派遣したものと考えられます。古琉球の歌謡集『おもろさうし』では按司の軍団を「おやいくさ(親軍)」、武将や兵士たちを「大ころ」「厳子(いつこ)」と呼んでいます。按司たちは自らの「いくさ(軍)」を組織して戦闘に挑んだのです。
「大ころ」たちは日本製の鎧(よろい)や刀、弓矢などで武装していました。グスクなどの発掘調査ではこれらの武器が多量に出土します。沖縄本島内で出土した鉄鏃(矢じり)の分析によると、13世紀後半から出土量が増え始め、14世紀後半に激増するといいます。三山の時代に入って矢を消費する量が圧倒的に増えたことは、各地での戦争が激化したことを示しているのです。グスク時代になって琉球列島に鉄が交易品として入ってきたことは前に述べましたが、輸入した鉄材はそのほとんどが武器の製造にまわされました。戦争の激化にあわせて城塞的グスクも大型化・複雑化し、14世紀後半から15世紀後半(三山~第一尚氏)の短期間に飛躍的な発展を遂げたこともわかっています。そのなかで浦添グスク、今帰仁グスクや勝連グスクなどの大型グスクも、この頃に城郭のかたちが整えられていきました。
このような按司の軍(いくさ)の抗争によって、按司たちを束ねる按司が現れます。その集団は沖縄本島南部、中部、北部をそれぞれ支配領域とする集団にまとまります。中国が「三山」と呼んだ三つの大勢力です。三勢力の各リーダーは強大な軍事力を背景に各地の按司を従えていましたが、その実態は按司の連合政権というべきもので、いまだ「王位」の世襲制は定着していませんでした。三山の「王」という捉え方はあくまで中国側の認識であって、実際は「王」という絶対的な権力者のイメージとはかけ離れたものであったようです。
古琉球の時代には沖縄本島を「おきなわ(沖縄)」、奄美地域を「奥渡(おくと)より上(かみ)」、先島地域を「みやこ・やへま(宮古・八重山)」と呼んでいました。沖縄本島では北部・南部のことをそれぞれ「上下(かみ・しも)」と呼んでいたようです。国頭(くにがみ)という呼び方は、「くにの上(かみ)」からきています。『おもろさうし』には「下(しも)の世の主」が登場しますが、これは南山王のことだと考えられています。北山王はおそらく「上(かみ)の世の主」と呼ばれていたことでしょう。
各グスクの正殿前には必ず御庭(うなー)と呼ばれる空間があります。連合政権に参加する各按司たちはここで合議を行ったと推測されています。三山の「世の主」の決定もこのような合議で決定されたのでしょう。例えば第一尚氏の尚徳王の死後、首里城正殿前の御庭で後継者を決定する会議が開かれ、その結果、家臣たちの推薦で金丸が王位に就くことになりましたが、これは必ずしも王位簒奪(さんだつ)という異常事態だったのではなく、古琉球における通常の後継者を決定するやり方だったのではないかというのです(時代は次第に王位世襲制に固まりつつあったようですが)。舜天王統から英祖王統、察度王統へという政権交代も、近世の観念では王の血筋によって「王統断絶」ととらえていますが、中山における通常の「世の主」決定システムでは血筋はとくに意識されず、舜天以来の継続した政権とみていたかもしれません。そして、その「世の主」を武力で奪取し、世襲制へと固定化していくのが尚巴志だったのです。



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