2005年10月28日

15世紀頃のヤマト(2)

明との通交を拒否された足利義満は、国内体制の確立に力をそそぎます。この頃の足利幕府の権力はいまだ磐石なものではなく、南朝勢力のほか、幕府内にも将軍に対抗しうる鎌倉公方(かまくらくぼう)や有力守護をかかえていました。

義満はまず1390年に美濃・尾張・伊勢の守護土岐氏を滅ぼし、1391年には「六分の一殿(日本全土の6分の1を支配する者)」と呼ばれた山名氏も滅ぼします(明徳の乱)。九州の懐良親王を破った今川了俊の力を恐れた義満は彼を遠江・駿河へ左遷、さらには1399年、周防の有力守護、大内義弘を堺で討ち(応永の乱)、強力な将軍権力を確立しました。大内義弘は義満に滅ぼされた山名・土岐や左遷された今川、南朝の残党と手を組み、さらには鎌倉公方の足利満兼にも呼びかけ義満包囲網をつくりますが、義弘が短期間で敗れてしまったため、その力は発揮されませんでした。

続いて義満は朝廷の力もそいでいきます。朝廷に残された唯一の場所である京都の支配権も奪い、1392年には南北朝を合一し三種の神器を北朝側が手にします。義満は1383年に源氏長者、准三后(じゅさんごう。皇后と同等のランク)になり、1394年には将軍職を息子の義持にゆずって太政大臣となり人臣の位をきわめると、間もなく辞任、出家して「道義(どうぎ)」と名乗ります。

これで義満は天皇を頂点とする官位体系から離脱して、これらを超越した君臨が可能となりました。このあたりは室町幕府の副将軍や朝廷の官位に任命されることを拒否して体制外からの統治を行おうとした織田信長といくらか共通する部分があるかもしれません。ここにきて「日本国王」号が重要な意味を持ってくるのです。

天皇の権限も義満によって徐々に吸収されていきます。本来天皇が行うべき国家的祈祷は幕府によって行われるようになり、皇族・摂関家のみがなることを許された有力寺社の門跡も、足利家の子弟が続々と送りこまれていきます。天皇に忠誠を誓うべき公家たちも義満の臣下同然となっていきます。義満は京都北山に大規模な邸宅(北山第。金閣寺のある場所)を造営しますが、この北山第は天皇の内裏をそっくり模倣したもので、内裏にしかないはずの「紫宸殿」や「清涼殿」などの殿舎がありました。北山第は内裏や将軍御所にかわって新たな国政の中心となっていくのです。  

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2005年10月20日

15世紀頃のヤマト(1)

思紹・尚巴志たちが生きていた時代、北のヤマト(日本)はどうなっていたのでしょうか。

14世紀後半、日本では南北朝争乱の末期でした。南朝は北朝勢力の足利氏に押されてジリ貧に陥っていました。しかし唯一、九州だけが後醍醐天皇の皇子、懐良(かねよし)親王の「征西府」の支配下にあって北朝の勢力を阻止していました。

一方、この頃中国を統一した明は、1370年、日本の権力者に倭寇を禁圧することを要請し、あわせて冊封を受け入れるよう使者を派遣します。この時、明の使者は九州の懐良親王を日本全土の支配者とカン違いし「日本国王良懐(りょうかい)」として封じてしまいます。懐良は明との貿易を独占できるだけでなく、超大国の明という、北朝方に対抗できる後ろだてを手に入れることができました。

ところが懐良のもくろみは崩れてしまいます。1372年、北朝から天才的軍略家の今川了俊(りょうしゅん)が九州探題として派遣され懐良軍を撃破、博多や本拠地の大宰府を占領して九州を平定してしまうのです。

北朝方の足利義満も何度か明への使者を送りますが、明側は先に冊封した「日本国王」懐良親王以外には入貢を認めないと拒否していまいます。義満は「征夷将軍源義満」の名で使者を送りますが、国王以外の外交を認めない明にとっては、王より下の「将軍」が皇帝に使者を送るなど、とんでもないことです。

実は、明はこの時には懐良親王がもはや実質的な権力は持たない存在であることを知っていたのですが、いったん決めた外交秩序を簡単に変えることはできませんでした。日本の権力者に倭寇を禁圧してもらうという明の思惑は挫折し、かわって琉球を重視する方針をとっていきます(朝貢の開始と国際都市那覇の形成(3)を参照)。

九州支配の実権を奪われた懐良ですが、この後もしばしば明へ使者を派遣しています。しかし、これらの使者は懐良自身が送ったものではなく、薩摩の島津氏など地域領主が送ったものでした。この頃「日本国王良懐」は明と貿易するための名義のような存在になってしまうのです。明側も実体はどうであれ、形式上問題なければ使者を受け入れていました。この「日本国王良懐」の通交は、1386年の日本との断交まで続きます。  

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2005年10月06日

「王朝実録」今後の展開

ここまで「グスクの海」の時代を知るための前提をひとまず書いて、一区切りついたという感じです。いよいよ尚巴志について述べていこうと思っていますが、今後の展開を予告します。

◆15世紀頃のヤマト、北方世界(エゾ)、朝鮮、中国・東南アジア
「グスクの海」の時代と同じ頃の対外世界の状況を概観しようと思います。南北朝争乱から室町期、天皇を凌駕する「日本国王」足利義満。北方世界の「日の本将軍」安藤氏とアイヌ。朝鮮王朝と対馬・倭寇。明の永楽帝の治世と鄭和のアジア・アフリカ遠征。「交易の時代」を迎える東南アジア…などなど。

◆尚巴志の野望(佐敷按司から王国統一まで)
佐敷の小按司から興った思紹と尚巴志。彼らの台頭の背景。大里按司の撃破から浦添グスク攻略、中山王へ。懐機をはじめとした華人勢力との同盟。北山・南山を滅ぼし、名実ともに琉球世界の「世の主」へとのぼりつめる道程を数回に分けて述べていきたいと思います。

◆15世紀頃の琉球社会
彼らが生きていた社会とはどのようなものだったのか。庶民の暮らしや服装、習俗、信仰など、少ない史料からですが、うかがえる限りで見ていきたいと思います。


◆第一尚氏王朝の官制
尚巴志らが樹立した第一尚氏王朝の政治組織はどのような構成であったのか。役職の解説など。

◆古琉球人物列伝
尚巴志の周辺にいた第一尚氏王朝の人物紹介や補足など。

以上のような感じです。ただしこれまで書いたようなペースでは進まないと思いますので気長に更新をお待ちください。  

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