2006年01月08日
15世紀頃のヤマト(3)
1386年、明の胡惟庸(こいよう)の謀反に加担したとして「日本国王」の懐良親王は明との通交を停止させられました。事の真偽は不明ですが、ともかく義満が明との通交を行える条件は整いました。
そして1401年、義満はついに明皇帝から「日本国王源道義」として冊封され、通交を許可されたのです。これにともなって明からは貿易に必要な「勘合(一種の証明書)」を与えられて毎年のように使節船を派遣し(勘合貿易)、莫大な富を手にすることができました。
義満の「日本国王」冊封は、単なる貿易の利益を得るだけにとどまりませんでした。義満が天皇の権力を我が手に吸収していったと前回述べましたが、実は義満は「日本国王」として天皇に代わる新たな権威となり、天皇制を滅ぼそうとしたのではないかと言われています。
義満の“皇位簒奪(さんだつ。奪うこと)説”については研究者によって意見が分かれるところですが、実際に義満が天皇や上皇に並ぶ体制づくりは着々と進んでいました。義満は公式の舞台で上皇と同格の待遇でのぞみ、また自らが寵愛する子の義嗣(よしつぐ)に、内裏で親王に準拠した元服を行わせます。これは義嗣が皇族と同格であることを意味します。義満は自らを上皇、子の義嗣を天皇に匹敵する地位にすることを計画していたようです。天皇制は崩壊の危機を迎えていました。ところが、義嗣元服のわずか三日後、義満は突然病死していまいます。
朝廷は死んだ義満に「太上天皇」の称号を送りました。しかし、義満の皇位簒奪計画を崩したのは他ならぬ息子の義持でした。彼は父義満が存命中には名目上の将軍でしたが、義満は弟義嗣を寵愛し自らの後継者としていたため、父を激しく憎悪していました。そのため父の死後、義持は義満の計画をことごとく、くつがえします。「太上天皇」称号の辞退のみならず、父が苦労して築きあげた明との冊封関係も全て破棄してしまいます。政治の中心であった北山第も解体され、跡地は鹿苑寺(金閣寺)となります。義持も天皇をおさえつつ将軍の権力を強化することはしたようですが、もともと幕府内にも急進的な義満の政策を批判する人々がいたので、彼らによって義満の「皇位簒奪」路線は潰されてしまうのです。
そして1401年、義満はついに明皇帝から「日本国王源道義」として冊封され、通交を許可されたのです。これにともなって明からは貿易に必要な「勘合(一種の証明書)」を与えられて毎年のように使節船を派遣し(勘合貿易)、莫大な富を手にすることができました。
義満の「日本国王」冊封は、単なる貿易の利益を得るだけにとどまりませんでした。義満が天皇の権力を我が手に吸収していったと前回述べましたが、実は義満は「日本国王」として天皇に代わる新たな権威となり、天皇制を滅ぼそうとしたのではないかと言われています。
義満の“皇位簒奪(さんだつ。奪うこと)説”については研究者によって意見が分かれるところですが、実際に義満が天皇や上皇に並ぶ体制づくりは着々と進んでいました。義満は公式の舞台で上皇と同格の待遇でのぞみ、また自らが寵愛する子の義嗣(よしつぐ)に、内裏で親王に準拠した元服を行わせます。これは義嗣が皇族と同格であることを意味します。義満は自らを上皇、子の義嗣を天皇に匹敵する地位にすることを計画していたようです。天皇制は崩壊の危機を迎えていました。ところが、義嗣元服のわずか三日後、義満は突然病死していまいます。
朝廷は死んだ義満に「太上天皇」の称号を送りました。しかし、義満の皇位簒奪計画を崩したのは他ならぬ息子の義持でした。彼は父義満が存命中には名目上の将軍でしたが、義満は弟義嗣を寵愛し自らの後継者としていたため、父を激しく憎悪していました。そのため父の死後、義持は義満の計画をことごとく、くつがえします。「太上天皇」称号の辞退のみならず、父が苦労して築きあげた明との冊封関係も全て破棄してしまいます。政治の中心であった北山第も解体され、跡地は鹿苑寺(金閣寺)となります。義持も天皇をおさえつつ将軍の権力を強化することはしたようですが、もともと幕府内にも急進的な義満の政策を批判する人々がいたので、彼らによって義満の「皇位簒奪」路線は潰されてしまうのです。



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