2006年05月21日

尚巴志の野望(2)

尚巴志が台頭することになった最大の要因は、南山最強の按司であった大里按司を倒せる大きなチャンスがこの時期にめぐってきたことでしょう。佐敷の隣国であった大里は島添(しまおそい。村々を支配する意味)大里とも呼ばれ、大里按司は「南山王・承察度」、琉球世界でいう「下の世の主(しものよのぬし)」として君臨していました。ところが南山は按司連合政権の様相を呈していて、権力が一極に集中してはいませんでした。大里按司は南山の第一の有力按司にすぎず、「王」と呼べるような超越した権力は持っていなかったと考えられます。

1394年(洪武27)、中山王の察度は朝鮮王朝に対して逃亡中の南山王の子、承察度を送還するよう求めており、さらに1398年(洪武31)には南山王の温沙道(うふさと、大里と考えられる)が中山王に追われて亡命しています。前述のように、この亡命劇は中山王武寧が南山の汪応祖を支援してクーデターを起こしたものか、尚巴志との戦いに敗れて逃亡した可能性があるわけですが、いずれにせよ、尚巴志が島添大里を攻略する直前には大里按司の勢力はかなり弱体化していたことは確かなようです。

近世の史書によると、島添大里按司は思紹より家督を継いだ尚巴志を「英明神武にして擎天(天を支える)の翼あり」として非常に恐れていました。尚巴志は機先を制して大里按司を急襲、佐敷按司軍には勇健の兵が多く、大里按司軍は壊滅してしまいます。これにより尚巴志は大里を手中にし、その威名大いに振るったとあります。日本の戦国時代でいう信長の桶狭間の戦いに匹敵する大勝利を得て、琉球国中に「佐敷の小按司」の名を轟かせることになったのです。

思紹・尚巴志は大里按司の打倒後、佐敷グスクから大里グスクへ拠点を移したとみられます。というのは、第一尚氏時代の記録には首里城の南に同じ規模の「旧宮」があり、国王は数百名の兵を連れて「常居の宮(首里城)」と「旧宮」の間を往来していたとあるからです。この「旧宮」とは島添大里グスクのことでしょう。大里グスクは1458年(天順2)まで使用されていたことが、大里城に寄進された尚泰久王の雲板(禅宗で使うドラのような板)から確認できます。近年の発掘調査によると、大里グスクは当時の首里城とほぼ同じ大きさの面積2万平方メートルの大型グスクであることが確認され、また出土遺物から15~16世紀頃まで使用されていたことがわかっています。

近世の史書『中山世鑑』では、尚巴志は大里按司を打倒して、まず南山王になったと書かれています。たしかに尚巴志によって「南山王」であった大里按司が打倒され、巴志が大里グスクに入って新たな「大里按司」になったのは事実です。しかし、「南山王」はあくまで明朝の立場から見たものであり、さらに当時の琉球では「世の主」は「王」の血筋で受け継がれるものではなく、按司たちの合意のもと、その時々の有力者によって担われていました。よって大里按司を滅亡させたからといって、ただちに尚巴志が南山王になるわけではありません。現に承察度の次には「王弟」の汪応祖が南山王となっています。『中山世鑑』では当時の状況を近世的な観念から解釈したため、あのような記述になったと考えられます。  

Posted by トラヒコ at 01:51Comments(4)TrackBack(0)第一尚氏王朝