2006年09月24日

尚巴志の野望(5)

武寧を打倒した思紹は1407年(永楽5)、明への通交を開始し、武寧の世子として新たに中山王に冊封されます。思紹政権の「王府」主要メンバーは次のようになっていました。

◆中山王:思紹

◆中山王世子:尚巴志

◆王相:王茂

◆長史:王茂(兼任)、懐機

◆華人:林祐、懐得(亜蘭匏の子?)、韓完義(華人か)

◆重臣:三五郎尾(さんぐるみぃ)、模都甫(もとぶ)、甚麻之里(しまじり)、阿不察都(うふさと)、阿乃佳(あじじゃ)

◆寨官(按司):祖魯古(そろぐ)、鄔同志久(うとしく)、周魯毎(じるみぃ)、恰那晟其(じゃなさち)ほか

中山は朝貢貿易を活発に行い、さらに按司の子弟らを南京の国子監(当時の最高学府。いわば明朝の東大)に留学させ中国の先進文化や中国語を学ばせます。按司たちにとっては当時の世界最高水準の学問を学んで自らの権力強化をはかる目的もありましたが、彼ら留学生(官生)らは、実は琉球の朝貢貿易業務の現地スタッフとしての役割も担っていました。長期滞在する学生たちは取引に必要な中国語も学んでおり、留学を終えた後は琉球の朝貢使者としても活躍しました。この留学制度は中山と南山にのみ認められており、北山からの留学生はいませんでした。上記の「寨官」たちは全員、官生として南京国子監に留学した者たちです。彼らは中国語を自由にあやつり、四書五経なども理解していたに違いありません。

中山の抵抗勢力を鎮圧した思紹・尚巴志はいよいよ強敵、北山を狙います。北山王は勇猛で知られた攀安知(はんあんち)、今帰仁グスクを拠点に沖縄島北部一帯を支配下におき、中山にとっては油断ならない存在でした。しかし北山の按司たちは飛ぶ鳥落とす勢いの思紹・尚巴志政権に次第になびいていったようです。近世の史書によると、思紹らは、北山王は剛勇だが、じきに中山に帰服するだろうと楽観視していたようです。しかしある日、中山へ羽地按司からの急報が届きます。北山王が玉砕覚悟で首里へ侵攻しようと兵の動員準備を進めているというのです。

北山王・攀安知は北山の按司たちが次々と中山王側についている状況を見て、「我らは勢力が衰えていっているが、一戦もせずに降伏するは恥。中山の兵が何万騎いようと打ち破ってみせよう。たとえ負けようとも名は後世に残るだろう。者ども、臆して人に笑われるな!」と豪語したといいます。

驚いた思紹・尚巴志はただちに中山の兵を招集し、北山の今帰仁グスク攻略に向かいます。こうして1416年(永楽14)、琉球戦国時代の「関が原」とも言うべき、中山と北山の一大決戦が幕を開けるのです。

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