2005年08月28日
おきなわの「琉球化」と中国文化の導入(2)
琉球への中国式官制の導入にあわせて、新たな権威・身分の指標として中国冠服が加わりました。明朝成立とともに、それまでのモンゴルの風俗に代わる伝統的な漢民族の服制が整備され、身分ごとに着用すべき服が厳格に定められました。
琉球へはまず1392年(洪武25)、在琉華人の程復らが「琉球の人々の尊敬を集め、野蛮な国俗を改めるため」にという要請で洪武帝から冠服が授与され、その後、三山の王たちも先を争って中国冠服を入手します。豪華で明朝のランクに公的に位置付けられたプレミアグッズを手に入れることで、「文明化」された象徴として、琉球のなかで優位な立場にあることを視覚的に訴えることができたのです。これ以降、明式の冠服は琉球の正装として定着することになります。※琉球へ導入された中国冠服はこちらを参照。
中国冠服は常に着用していたのではなく、重要な儀式で使用されました。王のグスクでは皇帝の誕生日や元旦などの中国式儀礼が新たに行われ、王や按司、華人たちが明服で儀式にのぞみました。明から王に与えられた冠服は、さらに按司や家臣などに与えられ、琉球には明服を「着る者」と「着ざる者」という目に見える新しい身分秩序ができたのです。しかし明服は琉球人にとってなじまなかったようで、儀式中に明服を着た琉球人は非常に窮屈そうにしていて終わればすぐ脱いでしまうと、ある記録にあります。
そして三山の王は冊封(明皇帝から王に任命される)の際に「皮弁(ひべん)冠服」が与えられました。王の皮弁冠服は明の「郡王」ランクに位置付けられていました(日本や朝鮮はひとつ上の「親王」ランク)。琉球ではこの皮弁冠服を、日本の三種の神器のような王権のレガリア(象徴物)としました。また明の使節が持ってきた王の任命書(詔勅)を琉球ではわざわざ貰い受け、代々「鎮国の宝」としました。皇帝より下賜された王印も、王が王たるゆえんとして神聖視されたものとみられます。このように琉球世界には「中国」という新たな権威が加わったのです。
さらに中国から琉球に導入されたものに暦がありました。朝貢国となった琉球では全て中国年号が使用され、明からは毎年大統暦(いわゆるカレンダー)100本が支給されました。これらは各地の按司や家臣に配られ、王のグスクで行われる儀礼に参加するための正確な日取りを把握することが可能になりました。
明からもたらされた実用品なども琉球社会に広く流通することになりました。陶磁器や鉄釜、絹織物、そして銅銭や鈔(紙幣)などです。とくに陶磁器は重宝され、一度に7万個もの数が琉球にもたらされた例があります。これらは貿易品として日本や東南アジアに転売されるだけでなく、王や按司たちも自分のものとして入手しました。グスクの調査などでは大量の陶磁器片が出土しますが、当時の権力者が外来の珍品を自らの居城にストックしていたことがわかります。
銅銭や鈔(しょう)などの貨幣・紙幣も大半が貿易の決済に使われたとみられますが(とくに日本は一時期、国内で流通する銅銭を琉球に求めていた)、琉球内においても一部(おそらく那覇を中心)に貨幣経済が導入されたと考えられます。鈔も大量に琉球に入ってきていました。鈔(大明宝鈔)は1375年(洪武8)に発行された高額紙幣ですが、濫発されたためインフレになり、1470年代(尚円王の頃)には500分の1に暴落して無価値になってしまいます。琉球でも発行当初には高価値のものとして流通していたはずです。
このように明への朝貢の開始は中国文化をもたらし、琉球に絶大な影響を与えました。しかし、それまでの「沖縄的社会」は全く無くなってしまったのではなく、例えば明治維新で西洋文化が流入した日本で和文化が全く無くならなかったように、「文明開化」した琉球でも土着の文化はしぶとく生き残り、「和魂洋才」ならぬ「琉魂中才」されるのです。
琉球へはまず1392年(洪武25)、在琉華人の程復らが「琉球の人々の尊敬を集め、野蛮な国俗を改めるため」にという要請で洪武帝から冠服が授与され、その後、三山の王たちも先を争って中国冠服を入手します。豪華で明朝のランクに公的に位置付けられたプレミアグッズを手に入れることで、「文明化」された象徴として、琉球のなかで優位な立場にあることを視覚的に訴えることができたのです。これ以降、明式の冠服は琉球の正装として定着することになります。※琉球へ導入された中国冠服はこちらを参照。
中国冠服は常に着用していたのではなく、重要な儀式で使用されました。王のグスクでは皇帝の誕生日や元旦などの中国式儀礼が新たに行われ、王や按司、華人たちが明服で儀式にのぞみました。明から王に与えられた冠服は、さらに按司や家臣などに与えられ、琉球には明服を「着る者」と「着ざる者」という目に見える新しい身分秩序ができたのです。しかし明服は琉球人にとってなじまなかったようで、儀式中に明服を着た琉球人は非常に窮屈そうにしていて終わればすぐ脱いでしまうと、ある記録にあります。
そして三山の王は冊封(明皇帝から王に任命される)の際に「皮弁(ひべん)冠服」が与えられました。王の皮弁冠服は明の「郡王」ランクに位置付けられていました(日本や朝鮮はひとつ上の「親王」ランク)。琉球ではこの皮弁冠服を、日本の三種の神器のような王権のレガリア(象徴物)としました。また明の使節が持ってきた王の任命書(詔勅)を琉球ではわざわざ貰い受け、代々「鎮国の宝」としました。皇帝より下賜された王印も、王が王たるゆえんとして神聖視されたものとみられます。このように琉球世界には「中国」という新たな権威が加わったのです。
さらに中国から琉球に導入されたものに暦がありました。朝貢国となった琉球では全て中国年号が使用され、明からは毎年大統暦(いわゆるカレンダー)100本が支給されました。これらは各地の按司や家臣に配られ、王のグスクで行われる儀礼に参加するための正確な日取りを把握することが可能になりました。
明からもたらされた実用品なども琉球社会に広く流通することになりました。陶磁器や鉄釜、絹織物、そして銅銭や鈔(紙幣)などです。とくに陶磁器は重宝され、一度に7万個もの数が琉球にもたらされた例があります。これらは貿易品として日本や東南アジアに転売されるだけでなく、王や按司たちも自分のものとして入手しました。グスクの調査などでは大量の陶磁器片が出土しますが、当時の権力者が外来の珍品を自らの居城にストックしていたことがわかります。
銅銭や鈔(しょう)などの貨幣・紙幣も大半が貿易の決済に使われたとみられますが(とくに日本は一時期、国内で流通する銅銭を琉球に求めていた)、琉球内においても一部(おそらく那覇を中心)に貨幣経済が導入されたと考えられます。鈔も大量に琉球に入ってきていました。鈔(大明宝鈔)は1375年(洪武8)に発行された高額紙幣ですが、濫発されたためインフレになり、1470年代(尚円王の頃)には500分の1に暴落して無価値になってしまいます。琉球でも発行当初には高価値のものとして流通していたはずです。
このように明への朝貢の開始は中国文化をもたらし、琉球に絶大な影響を与えました。しかし、それまでの「沖縄的社会」は全く無くなってしまったのではなく、例えば明治維新で西洋文化が流入した日本で和文化が全く無くならなかったように、「文明開化」した琉球でも土着の文化はしぶとく生き残り、「和魂洋才」ならぬ「琉魂中才」されるのです。
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