2005年09月05日

古琉球人物列伝(2)久米村の華人たち

琉球で活躍した華人は懐機だけではありませんでした。数多くの華人のなかから今回はとくに興味深い人々を紹介したいと思います。古琉球の時代は、そこに生きていた人たちの「顔」が見えないと思われがちですが、決してそんなことはありません。「グスクの海」の時代を生きた様々な人々の一端を見ていただけたらと思います。

◆亜蘭匏(あらんほう) 
久米村の華人。中山王察度の使者としてさかんに明に赴く。察度政権の朝貢業務は彼に頼るところが大きい。1394年(洪武27)、明より初めて琉球国の王相に任じられ、正五品を授けられた。華人として察度政権を支えるとともに、久米村も掌握したと考えられる。思紹・尚巴志親子によって武寧政権が倒された後は失脚したと考えられる。

◆程復(ていふく) 
久米村の華人。1330年(至順元)生まれ。琉球の朝貢開始以前より久米村に居住。おそらく商人だったと考えられる。1392年(洪武25)時点で通事にして寨官(按司)を兼ねる。1396年(洪武29)典簿として明へ行き、やがて長史となる。1411年(永楽9)、81才で明より国相兼左長史の称号を授かり、故郷の河北省饒州に帰った。

◆潘仲孫(はんちゅうそん) 
華人。福建長楽県出身。明の内府内官監の管轄で皇族に様々なサービスを提供する「住坐工匠」であった。1390年(洪武23)、進貢船の梢水(水夫)として琉球へ渡り、1405年(永楽3)に火長(船長)に昇格。1431年(宣徳6)、老年のために故郷へ帰国した。

◆王茂(おうも) 
久米村の華人。1403年(永楽元)、長史となり中山王察度・南山王汪応祖の使者として明へ渡る。1411年(永楽9)、程復とともに国相に任じられる(右長史を兼任)。武寧政権の王相亜蘭匏に代わり、思紹の参謀を務めたとみられる。

◆懐得(かいとく) 
王相(亜蘭匏?)の子。1411年(永楽9)、中山王思紹より南京国子監に派遣される。懐機と何らかの関係があるか?

◆李仲(りちゅう) 
華人にして南山の寨官(按司。支配地は不明)。李銘・李傑の父。当初は北山王帕尼芝の使者として明に赴いていたが、後に南山王汪応祖から按司として迎え入れられたのだろうか。彼は外交のスペシャリストであり、南山において王を補佐する役割を果たしたと考えられる。1414年(永楽12)頃、汪応祖がクーデターで殺害された際にともに殺されたか、もしくは生き残って南山の各按司を率い、他魯毎を擁立したと考えられる。

◆李銘(りめい) 
李仲の長男。南山王汪応祖の進貢使節として1408年(永楽6)に明の南京に至る。父の跡を継ぎ按司となったと思われる。

◆李傑(りけつ) 
南山の按司李仲の次男。1405年(永楽3)南京の国子監に留学して8年間、エリート教育を受ける。1425年(洪煕元)、尚巴志使節の通事として明に渡航している。帰国後は久米村で外交業務を行っていたか。

◆鄭義才(ていぎさい) 
華人。福建長楽県の出身。はじめ南山王他魯毎、後に中山王尚巴志の使者として明へ渡り、永楽帝の陵墓に進香した。

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この記事へのコメント
楽しく読ませていただいています、次回も楽しみです。
Posted by 筑登之 at 2005年11月08日 16:39
>筑登之さま

ありがとうございます。
少々難しい内容もあるかもしれませんが、わからない場合は遠慮なくコメントください。補足などを載せたいと思います。

これからもよろしくお願いします。
Posted by とらひこ at 2005年11月10日 16:44