2006年01月08日

15世紀頃のヤマト(3)

1386年、明の胡惟庸(こいよう)の謀反に加担したとして「日本国王」の懐良親王は明との通交を停止させられました。事の真偽は不明ですが、ともかく義満が明との通交を行える条件は整いました。

そして1401年、義満はついに明皇帝から「日本国王源道義」として冊封され、通交を許可されたのです。これにともなって明からは貿易に必要な「勘合(一種の証明書)」を与えられて毎年のように使節船を派遣し(勘合貿易)、莫大な富を手にすることができました。

義満の「日本国王」冊封は、単なる貿易の利益を得るだけにとどまりませんでした。義満が天皇の権力を我が手に吸収していったと前回述べましたが、実は義満は「日本国王」として天皇に代わる新たな権威となり、天皇制を滅ぼそうとしたのではないかと言われています。

義満の“皇位簒奪(さんだつ。奪うこと)説”については研究者によって意見が分かれるところですが、実際に義満が天皇や上皇に並ぶ体制づくりは着々と進んでいました。義満は公式の舞台で上皇と同格の待遇でのぞみ、また自らが寵愛する子の義嗣(よしつぐ)に、内裏で親王に準拠した元服を行わせます。これは義嗣が皇族と同格であることを意味します。義満は自らを上皇、子の義嗣を天皇に匹敵する地位にすることを計画していたようです。天皇制は崩壊の危機を迎えていました。ところが、義嗣元服のわずか三日後、義満は突然病死していまいます。

朝廷は死んだ義満に「太上天皇」の称号を送りました。しかし、義満の皇位簒奪計画を崩したのは他ならぬ息子の義持でした。彼は父義満が存命中には名目上の将軍でしたが、義満は弟義嗣を寵愛し自らの後継者としていたため、父を激しく憎悪していました。そのため父の死後、義持は義満の計画をことごとく、くつがえします。「太上天皇」称号の辞退のみならず、父が苦労して築きあげた明との冊封関係も全て破棄してしまいます。政治の中心であった北山第も解体され、跡地は鹿苑寺(金閣寺)となります。義持も天皇をおさえつつ将軍の権力を強化することはしたようですが、もともと幕府内にも急進的な義満の政策を批判する人々がいたので、彼らによって義満の「皇位簒奪」路線は潰されてしまうのです。  

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2005年10月28日

15世紀頃のヤマト(2)

明との通交を拒否された足利義満は、国内体制の確立に力をそそぎます。この頃の足利幕府の権力はいまだ磐石なものではなく、南朝勢力のほか、幕府内にも将軍に対抗しうる鎌倉公方(かまくらくぼう)や有力守護をかかえていました。

義満はまず1390年に美濃・尾張・伊勢の守護土岐氏を滅ぼし、1391年には「六分の一殿(日本全土の6分の1を支配する者)」と呼ばれた山名氏も滅ぼします(明徳の乱)。九州の懐良親王を破った今川了俊の力を恐れた義満は彼を遠江・駿河へ左遷、さらには1399年、周防の有力守護、大内義弘を堺で討ち(応永の乱)、強力な将軍権力を確立しました。大内義弘は義満に滅ぼされた山名・土岐や左遷された今川、南朝の残党と手を組み、さらには鎌倉公方の足利満兼にも呼びかけ義満包囲網をつくりますが、義弘が短期間で敗れてしまったため、その力は発揮されませんでした。

続いて義満は朝廷の力もそいでいきます。朝廷に残された唯一の場所である京都の支配権も奪い、1392年には南北朝を合一し三種の神器を北朝側が手にします。義満は1383年に源氏長者、准三后(じゅさんごう。皇后と同等のランク)になり、1394年には将軍職を息子の義持にゆずって太政大臣となり人臣の位をきわめると、間もなく辞任、出家して「道義(どうぎ)」と名乗ります。

これで義満は天皇を頂点とする官位体系から離脱して、これらを超越した君臨が可能となりました。このあたりは室町幕府の副将軍や朝廷の官位に任命されることを拒否して体制外からの統治を行おうとした織田信長といくらか共通する部分があるかもしれません。ここにきて「日本国王」号が重要な意味を持ってくるのです。

天皇の権限も義満によって徐々に吸収されていきます。本来天皇が行うべき国家的祈祷は幕府によって行われるようになり、皇族・摂関家のみがなることを許された有力寺社の門跡も、足利家の子弟が続々と送りこまれていきます。天皇に忠誠を誓うべき公家たちも義満の臣下同然となっていきます。義満は京都北山に大規模な邸宅(北山第。金閣寺のある場所)を造営しますが、この北山第は天皇の内裏をそっくり模倣したもので、内裏にしかないはずの「紫宸殿」や「清涼殿」などの殿舎がありました。北山第は内裏や将軍御所にかわって新たな国政の中心となっていくのです。  

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2005年10月20日

15世紀頃のヤマト(1)

思紹・尚巴志たちが生きていた時代、北のヤマト(日本)はどうなっていたのでしょうか。

14世紀後半、日本では南北朝争乱の末期でした。南朝は北朝勢力の足利氏に押されてジリ貧に陥っていました。しかし唯一、九州だけが後醍醐天皇の皇子、懐良(かねよし)親王の「征西府」の支配下にあって北朝の勢力を阻止していました。

一方、この頃中国を統一した明は、1370年、日本の権力者に倭寇を禁圧することを要請し、あわせて冊封を受け入れるよう使者を派遣します。この時、明の使者は九州の懐良親王を日本全土の支配者とカン違いし「日本国王良懐(りょうかい)」として封じてしまいます。懐良は明との貿易を独占できるだけでなく、超大国の明という、北朝方に対抗できる後ろだてを手に入れることができました。

ところが懐良のもくろみは崩れてしまいます。1372年、北朝から天才的軍略家の今川了俊(りょうしゅん)が九州探題として派遣され懐良軍を撃破、博多や本拠地の大宰府を占領して九州を平定してしまうのです。

北朝方の足利義満も何度か明への使者を送りますが、明側は先に冊封した「日本国王」懐良親王以外には入貢を認めないと拒否していまいます。義満は「征夷将軍源義満」の名で使者を送りますが、国王以外の外交を認めない明にとっては、王より下の「将軍」が皇帝に使者を送るなど、とんでもないことです。

実は、明はこの時には懐良親王がもはや実質的な権力は持たない存在であることを知っていたのですが、いったん決めた外交秩序を簡単に変えることはできませんでした。日本の権力者に倭寇を禁圧してもらうという明の思惑は挫折し、かわって琉球を重視する方針をとっていきます(朝貢の開始と国際都市那覇の形成(3)を参照)。

九州支配の実権を奪われた懐良ですが、この後もしばしば明へ使者を派遣しています。しかし、これらの使者は懐良自身が送ったものではなく、薩摩の島津氏など地域領主が送ったものでした。この頃「日本国王良懐」は明と貿易するための名義のような存在になってしまうのです。明側も実体はどうであれ、形式上問題なければ使者を受け入れていました。この「日本国王良懐」の通交は、1386年の日本との断交まで続きます。  

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2005年10月06日

「王朝実録」今後の展開

ここまで「グスクの海」の時代を知るための前提をひとまず書いて、一区切りついたという感じです。いよいよ尚巴志について述べていこうと思っていますが、今後の展開を予告します。

◆15世紀頃のヤマト、北方世界(エゾ)、朝鮮、中国・東南アジア
「グスクの海」の時代と同じ頃の対外世界の状況を概観しようと思います。南北朝争乱から室町期、天皇を凌駕する「日本国王」足利義満。北方世界の「日の本将軍」安藤氏とアイヌ。朝鮮王朝と対馬・倭寇。明の永楽帝の治世と鄭和のアジア・アフリカ遠征。「交易の時代」を迎える東南アジア…などなど。

◆尚巴志の野望(佐敷按司から王国統一まで)
佐敷の小按司から興った思紹と尚巴志。彼らの台頭の背景。大里按司の撃破から浦添グスク攻略、中山王へ。懐機をはじめとした華人勢力との同盟。北山・南山を滅ぼし、名実ともに琉球世界の「世の主」へとのぼりつめる道程を数回に分けて述べていきたいと思います。

◆15世紀頃の琉球社会
彼らが生きていた社会とはどのようなものだったのか。庶民の暮らしや服装、習俗、信仰など、少ない史料からですが、うかがえる限りで見ていきたいと思います。


◆第一尚氏王朝の官制
尚巴志らが樹立した第一尚氏王朝の政治組織はどのような構成であったのか。役職の解説など。

◆古琉球人物列伝
尚巴志の周辺にいた第一尚氏王朝の人物紹介や補足など。

以上のような感じです。ただしこれまで書いたようなペースでは進まないと思いますので気長に更新をお待ちください。  

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2005年09月28日

古琉球人物列伝(6)北山王と群雄たち

今回は三山のひとつ、北山王と臣下について説明します。

北山は中山・南山と比べてほとんど記録が残っておらず、その実態は謎に包まれています。近世に伝えられた帕尼芝以前の北山王の伝承はありますが、その祖は英祖や伝説上の王、天孫氏の系譜とつながっていて、どこまで信憑性があるかわかりません。

北山の特徴について言えることは、他の二山と比べ明への朝貢回数が圧倒的に少ないことです。明から無償提供された大型ジャンク船も北山には与えられた記録がありません。今帰仁グスクの近くには那覇港に匹敵する良港の運天港があり、国際貿易港となるだけの条件を持っていたはずですが、明との関わりからみても、その後の展開からみてもそうはならなかったことがわかります。

ただし運天は本島内での拠点となっていただけでなく、北の奄美・ヤマトからの船の停泊地ともなりました。北山はおそらく明や東南アジアと積極的な通交を行わず、むしろ北の奄美・ヤマトとのつながりが強かったのではないでしょうか。また琉球の重要な朝貢品となっていた硫黄は沖縄島より北の離島の硫黄鳥島で採掘されていていました。北山の領域でしか採れない硫黄が中山や南山の朝貢品として継続して送られていたことから、対立していた三山は朝貢に関しては何らかの協定があったと考えられます。

また北山の支配領域である沖縄島北部は山がちで耕地や人口も少なく、グスクの数も中南部と比べてわずかしか存在しません。さらに今帰仁グスクなどの一部のグスクを除いて、そのほとんどが「土からなるグスク」で日本の中世城郭と同じ造りになっています。ちなみに現在私たちがイメージする天守閣のある日本の城は戦国時代末期から江戸時代にかけてできたもので、それ以前は全て土で城壁や堀をつくる構造の城でした。北山のグスクはこのような土で造られたものだったので、北部には(石積みでイメージされる)グスクが存在しないように見えるのです。

それでは北山の人物について以下に紹介していきます。

◆帕尼芝(はねじ)
記録に登場した最初の北山王。羽地按司か。1383年(洪武16)、北山の王としてはじめて明に入貢する。1386年(洪武19)には他の二山とともに朝貢し明から北山王の鍍金(金メッキ)銀印を下賜される。1390年(洪武23)には華人の李仲を通じて馬と硫黄を献上している。

◆珉(みん)
北山王。1394年(洪武27)、明へ朝貢した記録以外には一切、歴史の表舞台には登場しない。

◆攀安知(はんあんち)
最後の北山王。史書には「武芸絶倫」で「淫虐無道」とある。1396年(洪武29)、北山王としてはじめて明へ朝貢し、永楽元年(1403)には国俗を変ずるため明冠服を要求している。以来、1415年(永楽13)まで朝貢使を派遣。翌1416年、中山の思紹・尚巴志の中山軍に攻められるも、今帰仁グスクに立てこもり善戦。しかし臣下の平原に裏切られ自刃し北山は滅亡した。攀安知は千代金丸(ちよがねまる)という代々相伝の宝刀を持ち、そのいでたちは赤地の錦の直垂(ひたたれ)に火威(ひおどし)の鎧、龍頭の兜であったという。千代金丸は後に第二尚氏の手に渡った。

◆平原(たいはら)
攀安知の臣下。本部・崎本部村の住人で今帰仁グスクの頭役の一人という。史書には「勇あれど謀なし。貪欲の人」とある。中山の謀略に乗り攀安知を裏切る。裏切りの発覚後、攀安知に斬り殺されたとされる。近世の記録では平原の唐名は林端(りんたん)、その子は健堅(唐名・林藩)、ついで石川(唐名・林森。本部真部村の住人)と代々続いたという。

◆羽地(はねじ)按司、名護(なご)按司、国頭(くにがみ)按司
攀安知に反旗をひるがえした按司たち。中山の尚巴志とともに攀安知を攻撃した。北山滅亡後は本領を安堵されたか。彼らの詳細は不明。羽地按司は親川グスク、名護按司は名護グスク、国頭按司は根謝銘(国頭)グスクを本拠としたとみられる。グスクはいずれも日本の中世城郭と同じ構造の「土からなるグスク」である。

◆その他家臣(読みは推定)
模結習(もうじ)、善佳古耶(さかぐや)、恰宜斯耶(ざじしゃ)、亜都(あと)、赤佳(ちじゃ)  

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2005年09月22日

古琉球人物列伝(5)対外世界の人々

今回は琉球に関わった対外世界の人々を紹介します。この時期の琉球は沖縄の島々だけで成り立っていたのではなく、対外世界の人たちの参加なしには考えられませんでした。交易国家として最盛期を迎えていた琉球の特質を表わしているといえるでしょう。

◆頼重(らいじゅう) 
日本僧。薩摩坊津の龍厳寺一乗院(真言宗)の出と考えられている。察度王代に来琉し護国寺を創建、察度の祈願寺としたという。この護国寺は波上宮の神宮寺ではなく、浦添付近に建てられた別の寺という説もある。1384年(洪武17)に死去。

◆裔則(えいそく) 
道号は天屋(てんおく)。琉球国十刹の報恩寺住持。僧でありながら朝貢使節として明へも赴く。また1438年(正統3)には明の礼部へ度牒(僧侶の免許状)を求めている。

◆受林正琪(じゅりん・せいき) 
日本僧。足利義満の対明交渉のため琉球に渡航し、琉球滞在中の柴山(さいざん)に日本の国書を渡す。日本と明の国交正常化をこころよく思わない尚巴志によって殺害されたとされる。

◆八郎(はちろう) 
受林の従者。尚巴志による受林の殺害後、柴山にかくまわれ明へ逃亡。尚巴志は八郎が受林を殺したと主張して八郎の送還を訴えた。真相は不明だが、結局、明は柴山と八郎を処罰した。

◆早田六郎次郎(そうだ・ろくろうじろう) 
対馬の豪族、早田左衛門太郎の子。早田氏は朝鮮側から「賊首」と呼ばれており、その前身は倭寇であった。15世紀初頭、早田氏は対馬島主の宗氏をしのぎ最大の実力者となった。1429年には朝鮮王朝の受職人となる。六郎次郎は対馬を拠点に朝鮮・琉球間で交易活動を行い、1431年(宣徳6)には船主として琉球国王使の夏礼久・宜普結制(ぎぼ・うっち)を、1433年には琉球船匠の吾甫也古(うふやく)を朝鮮に送っている。六郎次郎の子は平茂続(たいら・しげつぐ)。茂続の母は朝鮮慶尚道の人。高麗末期に倭寇によって対馬に拉致され、茂続を生む。

◆金源珍(きんげんちん) 
朝鮮人とも倭人ともいわれる。外交エージェントのような存在で「通事」として登場。様々な言語をあやつり海域世界に生きる「境界人」であった。1429年(宣徳4)には朝鮮に漂着した琉球人を送還するなど朝鮮・琉球間を往来している。日本肥州太守の使者としても活躍した。

◆道安(どうあん) 
朝鮮・琉球間を活動した博多商人。1453年(景泰4)、尚金福の使者として朝鮮王朝に赴いて漂着朝鮮人を送還、琉球地図を献上する。以来たびたび朝鮮に通交し、朝鮮人を送還した功績により朝鮮王朝から「護軍」(正四官)に任命され受職人となった。

◆芥隠承琥(かいいん・じょうこ)
京都五山禅僧。南禅寺語心院の始祖、椿庭海寿(ちんてい・かいじゅ)の法嗣。景泰年中(1450~57年)に琉球に渡航し、那覇広厳寺の住持となる。さらに国王尚泰久の信仰を得て多くの寺院を創建。1466年(成化2)には尚徳の外交使節として京都の足利義政のもとを訪れる。芥隠は将軍側近の相国寺鹿苑院の蔭涼軒主と個人的に親しい仲にあった。1494年(弘治7)、第二尚氏王朝の尚真のもとで絶大な信頼を得て琉球円覚寺の住持となった。翌年の1495年死去。一説には金丸のクーデターに重要な役割を果たしたとされる。芥隠は国相懐機の死後に国政への関与を強めて、まるで徳川家康側近の天海僧正のように暗躍したのであろうか。

◆藤原国善(ふじわらのくによし)
ヤマトの廻船鋳物師(いもじ)。1458年(天順2)、尚泰久の命により「万国津梁(ばんこくしんりょう)の鐘」を鋳造する。北九州・筑前芦屋の出身と考えられる。廻船鋳物師とは日本列島を移動しながら、各地で梵鐘製作の仕事を請け負っていた人々。
  

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2005年09月15日

古琉球人物列伝(4)南山王と群雄たち

今回は三山のひとつ、南山王と南山で活躍した群雄たちを紹介します。

南山は他の二山とちがって突出した権力がなく、まさに按司連合政権といった感があります。南山は大里グスク(大里村)を拠点とする島添大里按司と南山グスク(糸満市)を拠点とする島尻大里按司の二大勢力で構成されていたと考えられます。考古学によるグスク時代の遺物調査からも、沖縄南部地方は島尻地方と島添地方の二つのグループに区分することができるそうです。そのほか、八重瀬按司であった王叔の汪英紫や、久米村出身の華人ながら南山の按司でもあった李仲(古琉球人物列伝(2)で先述)の存在も注目されます。

一般的に南山王の居城は南山グスク(糸満市)とされていますが、「島添(しまおそい)大里」の地名には「浦添」と同じように「シマジマを襲う(支配する)」という意味があり、大里グスクが南山の中心となっていた時期があった可能性が高いといえます。初期の南山王承察度(うふさと)は島添大里按司で、佐敷の思紹・尚巴志による大里グスク陥落の後は島尻大里の南山グスクが南山の中心になったものの、思紹・尚巴志により領域の半分(後の東四間切)を削られた南山は著しく弱体化したと考えられます。

南山では権力の分散傾向から王位をめぐりクーデターが多発します。承察度から汪応祖、汪応祖から他魯毎の政権交代は、全てクーデターによるものです。南山には王のほか王叔の汪英紫や承察度の弟達勃期などの実力者もおり、そのほかの按司たちも王位争いに様々に関与していたはずです。このような群雄割拠の状況が、佐敷按司の思紹・尚巴志たちを台頭させる土壌となったかもしれません。南山と思紹・尚巴志との関わりはまたの機会に述べるということで、次に南山の人物を紹介していきます。

【南山王の系統図】

┏大里按司━━┳(1)承察度━承察度
┣汪英紫     ┣達勃期━三五郎尾
┗函寧寿     ┗(2)汪応祖━(3)他魯毎
    
◆承察度(しょうさっと)
南山王。うふさと(大里)ともいう。大里グスクを本拠にする按司で『おもろさうし』に登場する「下(しも)の世の主」にあたる。1380年(洪武13)、南山王として中山王察度に次いで明への入貢を果たす。1398年(洪武31)、中山王に追われて朝鮮へ亡命(記録には温沙道=ウフサトと記される)。承察度はその年に朝鮮の地で死去している。彼の亡命は中山王武寧が南山の汪応祖を支援してクーデターを起こしたことによるものか。しかし、もう一つの可能性として思紹・尚巴志によって大里グスクが攻略された結果、島添大里按司(=南山王承察度)が朝鮮に逃亡したとも考えられる。思紹・尚巴志が大里按司を滅ぼした年は1402年とされるが、これは数百年後に編纂された歴史書を根拠としており、確かではない。実際にはこれより早い1398年だったのではないか。そして南山王の空位によって豊見城按司の汪応祖が島尻大里グスク(=南山グスク)で新たな王位についたとも考えられる。

◆汪英紫(おうえいし) 
承察度の叔父。えーじ(八重瀬)ともいう。東風平の八重瀬按司か。1388年(洪武21)、弟の函寧寿とともに明へ朝貢し、以来何度か使節を派遣している。承察度と並ぶ実力者だったと考えられる。

◆函寧寿(かねし) 
汪英紫の弟。1388年、汪英紫とともに明へ朝貢。

◆汪応祖(おうおうそ) 
南山王。承察度の弟。豊見(とよみ)グスクの按司と伝わる。クーデターにより承察度を追放して「下の世の主」の地位に就く。1403年(永楽元)、王弟として明へ入貢、翌1404年には南山王に封ぜられた。1415年(永楽13)、兄の達勃期によって殺された。

◆達勃期(たぶち)
汪応祖の兄。1415年、クーデターにより南山王の汪応祖を殺して王位に就こうと試みるが、これに反対する南山の按司連合軍の攻撃にあって自滅。彼は自分を差し置いて弟(汪応祖)が王となったのが許せなかったのだろうか。

◆他魯毎(たるみぃ)
最後の南山王。名前は太郎思い(たるもい)か。汪応祖の世子。1415年、達勃期によるクーデターが鎮圧された後、南山の按司連合によって擁立された。1429年(宣徳4)、中山王尚巴志によって滅ぼされた。他魯毎は尚巴志の長男であり、南山は尚巴志の傀儡政権であったとする説もある(尚巴志の長男は誰か不明であり、他魯毎が“太郎思い”の当て字であることから)。

◆三五郎尾(さんぐるみぃ) 
南山王承察度の甥という。達勃期の子か。1392年(洪武25)南京国子監に留学し、1411年(永楽9)頃まで30年近く在学した。国子監での待遇は他の官生と比べ格段に高い。帰国後は中山王思紹の使者として活躍した。対立する中山へ転身した理由は、南山でクーデターを起こした父の達勃期が滅び、南山で後ろ楯がいなくなったためであろうか。

◆実他魯尾(したるもい)、賀段志(かだんじ)
南山の按司。支配地は不明。

◆その他家臣(読みは推定)
師惹(しじゃ)、耶師姑(やしぐ)、南都妹(なんとみ)、不里(ふり)、呉堪弥(うかや)、渥周(うじょう)、泰頼(たいら)、阿勃吾斯古(うふぐすく)、乃佳吾斯古(なかぐすく)、吾是佳(ぐしかわ)、阿勃馬(うばま)、謂慈悖也(えすぶや)、安丹(あだ)、歩馬(ぶま)など。  

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2005年09月09日

古琉球人物列伝(3)中山王武寧とその臣下

今回は中山の察度・武寧政権のもとで活躍した者たちを紹介します。

◆武寧(ぶねい)
中山王(在位1396-1406年)。察度の子。神号は中之真物(なかのまもの)。1404年(永楽2)、明より冊封使時中が派遣され、武寧は琉球で初めて冊封を受けた。世界帝国の明から王として公認された武寧の威光はさらに高まったと考えられる。しかしそれが仇となり彼を増長させたのであろうか。1406年(永楽4)、琉球国の使者が去勢された宦官数人を明に献上するという事件が起こった。朝貢に人間を献上するのは異例の事態である。永楽帝は「彼らも人の子である。罪無き人を無理やり去勢するとは忍びない」と受け取りを拒否して諭したという。おそらくこの使者は武寧の使者と考えられ、もしそうなら武寧の残虐ぶりがうかがえよう。そしてこの年、南山の大里按司を倒し勢いに乗る佐敷の思紹・尚巴志軍によって浦添グスクは陥落、察度より続いた中山政権は滅亡する。武寧のその後の消息は不明。おそらく思紹らによって処刑されたと思われる。

◆完寧斯結(かんねいしけつ) 
中山王武寧の世子。後継者として1405年(永楽3)に明へ使節を派遣しているが、思紹・巴志らによる武寧政権の打倒後は消息不明。父の武寧とともに殺されたか。

◆泰期(たいき) 
中山王察度の弟。武寧の叔父。1372年、察度の使者として初めて明へ渡る。『おもろさうし』には「唐商い」を流行らせた「宇座の泰期思い」として登場する。生没年は不明。察度・武寧政権下では初めての朝貢使者として、また王弟として一目おかれた存在であったと考えられる。

◆地保奴(ティポヌ) 
モンゴル元朝皇帝の末裔。17代天元帝(ウスハル・ハーン)の次男。明の洪武帝(朱元璋)に捕らえられ、1388年(洪武21)、資財を与えられ琉球に追放された。おそらく中山政権の保護下にあったと思われる。その後の消息不明。彼についてはこちらを参照。

その他、察度・武寧政権に仕えていた家臣たちの名前を紹介(読み方は推定)。

◆日孜毎(ひにみ)、闊八馬(こはま)
中山王察度の一族。1392(洪武25)、南京国子監に留学。

◆仁悦慈(えいじ)、段志毎(だんしみぃ)、麻奢理(まさり)、誠志魯(せいしろ)
寨官(按司)の子。南京国子監に留学しエリート教育を受ける。帰国後は按司として各地に君臨したと考えられる。

その他家臣:阿不耶(うふや)、甚模(ぎぼ)、嵬谷(ごえく)、寿礼(しゅり)、察都(さと)、亜撤都(あさと)、毎歩(みぶ)、鴉勒佳稽(あらかき)、友賛(よざ)、養埠(やぶ)など。  

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2005年09月05日

古琉球人物列伝(2)久米村の華人たち

琉球で活躍した華人は懐機だけではありませんでした。数多くの華人のなかから今回はとくに興味深い人々を紹介したいと思います。古琉球の時代は、そこに生きていた人たちの「顔」が見えないと思われがちですが、決してそんなことはありません。「グスクの海」の時代を生きた様々な人々の一端を見ていただけたらと思います。

◆亜蘭匏(あらんほう) 
久米村の華人。中山王察度の使者としてさかんに明に赴く。察度政権の朝貢業務は彼に頼るところが大きい。1394年(洪武27)、明より初めて琉球国の王相に任じられ、正五品を授けられた。華人として察度政権を支えるとともに、久米村も掌握したと考えられる。思紹・尚巴志親子によって武寧政権が倒された後は失脚したと考えられる。

◆程復(ていふく) 
久米村の華人。1330年(至順元)生まれ。琉球の朝貢開始以前より久米村に居住。おそらく商人だったと考えられる。1392年(洪武25)時点で通事にして寨官(按司)を兼ねる。1396年(洪武29)典簿として明へ行き、やがて長史となる。1411年(永楽9)、81才で明より国相兼左長史の称号を授かり、故郷の河北省饒州に帰った。

◆潘仲孫(はんちゅうそん) 
華人。福建長楽県出身。明の内府内官監の管轄で皇族に様々なサービスを提供する「住坐工匠」であった。1390年(洪武23)、進貢船の梢水(水夫)として琉球へ渡り、1405年(永楽3)に火長(船長)に昇格。1431年(宣徳6)、老年のために故郷へ帰国した。

◆王茂(おうも) 
久米村の華人。1403年(永楽元)、長史となり中山王察度・南山王汪応祖の使者として明へ渡る。1411年(永楽9)、程復とともに国相に任じられる(右長史を兼任)。武寧政権の王相亜蘭匏に代わり、思紹の参謀を務めたとみられる。

◆懐得(かいとく) 
王相(亜蘭匏?)の子。1411年(永楽9)、中山王思紹より南京国子監に派遣される。懐機と何らかの関係があるか?

◆李仲(りちゅう) 
華人にして南山の寨官(按司。支配地は不明)。李銘・李傑の父。当初は北山王帕尼芝の使者として明に赴いていたが、後に南山王汪応祖から按司として迎え入れられたのだろうか。彼は外交のスペシャリストであり、南山において王を補佐する役割を果たしたと考えられる。1414年(永楽12)頃、汪応祖がクーデターで殺害された際にともに殺されたか、もしくは生き残って南山の各按司を率い、他魯毎を擁立したと考えられる。

◆李銘(りめい) 
李仲の長男。南山王汪応祖の進貢使節として1408年(永楽6)に明の南京に至る。父の跡を継ぎ按司となったと思われる。

◆李傑(りけつ) 
南山の按司李仲の次男。1405年(永楽3)南京の国子監に留学して8年間、エリート教育を受ける。1425年(洪煕元)、尚巴志使節の通事として明に渡航している。帰国後は久米村で外交業務を行っていたか。

◆鄭義才(ていぎさい) 
華人。福建長楽県の出身。はじめ南山王他魯毎、後に中山王尚巴志の使者として明へ渡り、永楽帝の陵墓に進香した。  

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2005年09月01日

古琉球人物列伝(1)懐機

ここまで思紹・尚巴志が登場するまでの時代について詳しく解説してきましたが、今回は「グスクの海」で活躍する人物の群像にせまっていきたいと思います。

まずは懐機(かいき)。琉球史のなかで懐機ほど謎に満ちた人物はそういないでしょう。懐機は琉球に定着した華人で琉球国の王相という地位に就き、尚巴志の軍師的な存在として政治・外交などを多方面で活躍し、第一尚氏王朝を名実ともに支えた人物です。三国志で言えば劉備を支えた諸葛亮孔明のような存在です。

懐機が歴史の表舞台に初めて登場するのは1418年(永楽16)。思紹の使者として「長史」の肩書きで明を訪れた時です。この時点で久米村華人のなかで比較的高い地位にあったと推測されますが、その後、中山王思紹のもとで「王相」となっていた王茂(おうも)の跡を継ぎ、1427年(宣徳2)までに琉球国王相となります。懐機は第一尚氏政権の最高政治顧問であるとともに久米村の華人集団を統率する長でもあったようです。

彼の才能は政治・外交だけでなく、建築・土木の面にも及んでいました。1427年(宣徳2)、首里城外に大規模な人工池(龍潭)と人工の丘(安国山)を造成、花木を植えて中国風の遊園をつくり、また1451年(景泰2)には懐機の指導のもと、那覇の浮島と沖縄本島を連結する総延長1キロもの海中道路(長虹堤)を完成させています。このように彼は土木技術に通じ、大工事を監督することも可能な人物でした。幅広く高い専門知識を持つインテリ層の出身であったことがうかがえます。

懐機は思紹から尚金福までの5代の王に仕えたことが確認されますが、彼はおそらく尚金福王の時代に死去したと考えられます。懐機の死後、第一尚氏王朝は王位継承争いや内乱などが勃発し、一気に瓦解へと向かいますが、これは尚巴志以後の第一尚氏政権が懐機の力で何とか保っていたことを示しています。まるで劉備が死んだ後の蜀を支えていた諸葛亮のように。

外交交渉においてもその力は発揮されます。当時、アジア海域世界にはりめぐらされていた華人ネットワークを駆使し、1428年から1440年まで「琉球国・王相府、王相懐機」の名で東南アジアのパレンバン(インドネシアのスマトラ島)との外交を行っています。パレンバンは現地人の王がいない華僑の連合政権で、「宣慰使(せんいし)」というリーダーがいて懐機と交渉を行ったのですが、両者の交渉はつまり華人同士の交渉だったのです。そして懐機は琉球史上唯一、明の皇帝と直接やり取りができた人物でした。国王の名による外交が通常であった当時、一個人が中国皇帝と自由に外交ができるというのは考えられないことです。懐機は明の武官一・二品という高いランクに位置づけられていました。

さらに懐機は中国の道教を信仰していたことも注目されます。1436年(正統元)、懐機は尚巴志とともに江西省竜虎山に総本山を持つ道教の天師道(正一教。五斗米道の直系)教団に護符を求めています。さらに尚巴志が死んだ後、懐機は再び竜虎山に使者を送り、死んだ尚巴志をとむらい天上で再生させてほしいと頼んでいます。これらの事実から懐機と尚巴志は道教に帰依していたことがわかります。尚巴志はおそらく懐機に感化されて道教を信仰するようになったのでしょう。

懐機に関する大きな謎は、彼がいったい何者かということです。出身地や生まれた年も不明。どうして皇帝と個人的なやり取りができたのか。なぜ第一尚氏を支える存在となったのか。もしかしたら彼は皇帝からの密命で琉球へ派遣されたかもしれません。あるいはこういう話も想定できます。懐機は王茂らとともに久米村のなかの若手の新興勢力のひとりで、それまで察度政権のなかで貿易利権を独占していた亜蘭匏らの華人旧勢力を打倒すべく、当時大里按司を倒してその名を轟かせていた思紹と尚巴志と手を結んで中山王武寧と亜蘭匏を滅ぼし、久米村も掌握することに成功した…謎は尽きませんが、彼は琉球史のなかで活動の足跡を具体的に追うことができる数少ないうちの一人なのです。  

Posted by トラヒコ at 16:30Comments(0)TrackBack(0)人物列伝